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やっぱり浮世絵師・鈴木春信が好き!代表作「風俗四季哥仙」に観る春信の魅力 その1
やっぱり浮世絵師・鈴木春信が好き!代表作「風俗四季哥仙」に観る春信の魅力 その2
■風俗四季哥仙 三月
鈴木春信 風俗四季哥仙 三月
“前編”では絵に描かれた和歌の出典元から、この絵が長久元年五月六日に伊勢の斎宮で行われた“斎宮良子内親王貝合”からイメージされた絵なのではないかとご紹介しました。
今回はその続きを読み解いていきましょう。
■住吉文様
では、もう一度絵に描かれている女性の模様を見て下さい。

風俗四季哥仙 三月(部分)
日本独自とも言える海岸線の美しさである“白砂青松”が描かれています。これは「住吉模様」と呼ばれています。
この「住吉模様」とは“住吉大社”周辺の様子を描いた模様のことです。大昔の住吉大社の社前は“白砂青松”と例えられるほど美しい砂浜が広がる海辺で、青々とした松が生い茂る景勝地だったとのです。
それだけではなく“住吉の松”は『相生の松』という伝説に登場するとても有名な松なのです。
■能・高砂
結婚式などで年配の方が「高砂や~」などとお謡いになるのを聴いたことがありませんか?あれが能の『高砂』という作品の中で謡われるおめでたい歌なのです。

山東京伝『絵本宝七種』内「高砂」ウィキペディアより
能の『高砂』という作品は、室町時代に世阿弥によって“相生の松”の伝説を元にした、和歌集「古今集」仮名序 にある 「高砂、住の江の松も、相生の様に覚え」という一節を元に作られたものです。
“相生の松”とは黒松(雄松)と赤松(雌松)が1つの根から生えた松のことで、神木とされています。そして夫婦が仲睦まじいことや長寿などを意味しています。
播州(兵庫県)高砂の松と、摂州(大阪府)住吉の松は、離れた土地に生える松同士ですが“相生の松”と称されていました。
それは何故なのか。
能の『高砂』を手短にご紹介すると、肥後(熊本県)阿蘇神社の神主が都へ行く途中に、有名な御神木である高砂の松を見ようと播州の高砂の浦に立ち寄りました。その松の木を探していると、清浄な佇まいの夫婦とおぼしき翁と媼が、手に熊手と箒をもって松の下を掃き清めていました。
神主はその老夫婦に前述の問いを訪ねます。すると翁は「高砂と住吉で遠く離れていたとしても、夫婦のようなもので、心が通じ合っていれば分かり合えるものなのですよ」と語り、媼は「たとえば和歌が万葉の昔から絶えないのは、草木のような万物に心が宿るからで、その草木の中でも松は一千年も緑を絶やさず、大変おめでたいものなのです」と語りました。
神主が「あなた方はどちらの方ですか?」と訪ねたところ、「私達は高砂と住吉の相生の松の精です。住吉の浦で待っていますよ」と言って小舟に乗り、海の沖へと行ってしまった。神主は急いで船を出し、二人を追うと・・・(後略)
というお話なのです。

風俗四季哥仙 三月(部分)
つまり、この絵の男女は、能の『高砂』に出てくる、夫婦和合・長寿の象徴である翁と媼を若い男女に描いたのではないでしょうか。そうすると女性の着物に住吉模様の“白砂青松”が描かれているのに合点がいきます。
■“源氏香”文様
さて、男性を見てみると羽織の袖のあたりに、これみよがしに描かれている紋があります。この紋は“源氏香”という図案に大変よく似ていますが、52種類の“源氏香”の中に、この図案は存在しません。

風俗四季哥仙 三月(部分)
“源氏香”とは香道の組香(香りの違いを聞き分ける)の一つであり、その香りの違いを図にした“香の図”から派生したものです。
江戸時代になるとハマグリを使ってもう片方の貝とピッタリ合わせる、本来は“貝覆い”と呼ばれる遊びも“貝合せ”と呼ばれており、貝の内側に源氏の絵が描かれているものも多かったので、“源氏香”の紋を描いたのかもしれません。
しかし何故存在しない自作の紋をこんな目立つところに描いているのか、不思議です。
“源氏香”の香の図は一つ一つの図柄に『源氏物語』の52帖の巻名がそれぞれ名付けられています。一番似ている紋は“玉鬘”の図柄です。

新訳源氏物語 上巻 玉鬘
源氏物語の中で源氏は長年探していた亡き恋人“夕顔”の娘と出会えたことを、“玉がつながるアクセサリーのように繋がっていたのだ”と思い、娘の名を“玉鬘”と名付けたのです。
源氏物語の“玉鬘”の内容は、夕顔の乳母が事情があって九州に移り住まなければならなくなった時に、“夕顔の娘の姫君”である“瑠璃君”を一人置いていく訳にもいかず連れていきました。瑠璃君は気品のある大変美しい娘に成長し、多くの殿方に愛されました。
その中でも肥後(熊本県)の役人であり有力者である男に、瑠璃君は熱烈に求婚されます。しかしその男は30歳くらいの大柄で太っている豪傑のような人なので、瑠璃君にとっては恐ろしくて結婚どころの話ではなく、乳母の長男の尽力で京の都に戻ることになり、やがて源氏と再開するという話なのです。
前述の能『高砂』の阿蘇神社の神主も肥後(熊本県)の人です。何か縁を感じてしまうのは筆者の深読みでしょうか。
また“玉鬘”というのは“毛髪”を美しく呼ぶ呼称でもあり、転じて“どうにもならないこと”や“運命”を表すとも言われています。
鈴木春信の意図はどこにあるのでしょうか。奥が深いです。
■斎宮良子内親王

一勇斎国芳 伊勢大神宮遷御之図
伊勢神宮の斎宮で、“斎宮良子内親王貝合”を主催した良子内親王は1030年生まれ。後朱雀天皇即位に伴い、8歳の時に未婚の内親王の中から占いで選ばれて斎宮となりました。1040年の貝合せの宴の時はわずか10歳だったのです。
その後、後朱雀天皇譲位により17歳で退下し、帰京します。帰京後は母の下で、弟妹らと暮らしていたようです。承暦元年(1077年)、天然痘のため49歳で死去しました。
“風俗四季哥仙 三月”の男性の羽織に描かれていた“源氏香”の図案。
あの羽織に描かれた“玉鬘”に似た“源氏香”の図案は、良子内親王の人生を表していたのではないかと筆者は読み解きました。
■さいごに
“風俗四季哥仙 三月”は単なる潮干狩りの絵では無かったようですね。江戸時代の人々も、素っ頓狂なことを考えたりして浮世絵を楽しんだのかと思うと、身近に感じられます。
次回は“風俗四季哥仙 (その4)”に続きます。
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