時は戦国、永禄三1560年「桶狭間の戦い」で今川義元(いまがわ よしもと)を討ち取った武将として知られる服部小平太(はっとり こへいた)と毛利新介(もうり しんすけ)。
その名前は歴史ファンの間で有名ながら、その後の人生についてはあまりよく知られていません。
そこでまずは服部小平太のプロフィールを紹介、いよいよ桶狭間の決戦に臨みます。
桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った服部小平太と毛利新介…その後の人生どうなった?【一】
■【服部小平太】桶狭間から大名になるまで
さて、桶狭間の戦いで小平太は勇猛果敢に敵陣深く斬り込んで、総大将・今川義元に一番槍をつける大手柄を立てたものの、義元の反撃によって膝を斬られてしまいます。
小平太が態勢を崩すとにわかに形勢は逆転、あわや斬られそうになったところを同僚の毛利新介に助けられますが、義元の首級も奪われてしまいました。
服部小平太(右)の一番槍。右田年英「今川義元桶狭間大合戦之図」明治三十一1898年
桶狭間の戦い以降しばらく、小平太は目立った働きが見られなくなりますが、義元に斬られた膝の後遺症に苦しんでいたのかも知れません。同僚たちの活躍を前に、忸怩たる思いを抱えていた様子が察せられます。
一方、弟の小藤太は後に信長の嫡男・織田信忠(のぶただ)に仕え、各地を転戦したようですが、これが後に命運を分かつことになるのでした(※小藤太は本能寺の変に際して、京都・二条御所で信忠を守って討死しています)。
再び服部小平太が登場するのは信長が明智光秀(あけち みつひで)の謀叛によって殺された「本能寺の変」以降、信長の重臣であった羽柴秀吉(はしば ひでよし。後の豊臣秀吉)に仕えた記録が残っています。
本能寺の変が起こった当時、小平太がどこで何をしていたかは不明ですが、後に秀吉の黄母衣衆(きほろしゅう。騎馬親衛隊)に抜擢されていることから、膝の傷も次第に癒えて、秀吉の配下(あるいは信長から派遣されたお目付け役)となっていたのでしょう。
そして秀吉がライバルたちを制して実質的な天下人となり、関白に就任した天正十三1585年、その余慶に与った小平太は長年の功労が認められ、従五位下采女正(じゅごいのげ うねめのかみ)の位を授かっています。

小平太、ついに城持ち大名に(イメージ)。
そして秀吉が天下を統一。天正十九1591年、前年の小田原征伐で北条氏を滅ぼした戦功によって伊勢国一志郡(現:三重県津市の南部&松阪市の一部)3万5千石を与えられて松坂城(現:三重県松阪市)に入り、小平太はついに城持ち大名になったのでした。
■【服部小平太】朝鮮出兵と羽柴秀次の失脚、そして悲劇の最期
さて、城持ち大名となった小平太は、秀吉の後継予定者である甥の羽柴秀次(はしば ひでつぐ)の補佐役を命じられ、この頃に秀次の「次」の一字を拝領して自分(一忠)の「忠」と合わせた「忠次」と改名したものと思われます。
明けて文禄元1592年4月、豊臣秀吉が朝鮮征伐(文永の役)の兵を興すと小平太(服部春安)は第二軍(朝鮮国都表出勢衆)の八番隊に所属。兵800を率いて若年の隊将・浅野幸長(あさの よしなが)を補佐して漢城(現:韓国ソウル)に進軍、その後も伊達政宗(だて まさむね)や加藤清正(かとう きよまさ)らと共に各地で奮戦しました。
1年以上にわたる激戦の末、翌文永二1593年の休戦によって日本へ帰還した小平太の元へ、秀吉より男児誕生の報せが届きます。
その名は拾丸(ひろいまる)、後の豊臣秀頼(とよとみ ひでより)ですが、彼の誕生によって、それまで後継者とされていた秀次の立場は一気に危ういものとなりました。
可愛い我が子を後継者にしたい秀吉は、秀次に対してあれこれと難癖をつけた挙句、強制的に出家させて高野山に追放(蟄居)、切腹にまで追い込みます。
秀次の補佐役でもあった小平太も、この連座(とばっちり)で所領を没収(改易)され、その身柄は五大老の一人・上杉景勝(うえすぎ かげかつ)に預けられた挙句、切腹を命じられてしまいました。

「無念……ッ!」切腹する小平太(イメージ)。
時は文禄四1595年7月、享年50歳前後と推測されます。
ちなみに、小平太には男子がおり、長男は夭折したのか不明ですが、次男の服部勝長(かつなが)は小平太の同僚として秀次の連座で切腹した木村常陸介重玆(きむら ひたちのすけしげこれ)の家臣・大大崎玄蕃充長行(おおさき げんばのじょうながゆき)の養子として引き取られ、後に福島正則(ふくしま まさのり)や紀州徳川家に仕えたとのことです。
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参考文献
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』 吉川弘文館、2010年10月27日
- 橋場日月『歴史群像 織田信長と戦国時代 信長が寵愛した八人の側近たち』学研、2014年11月
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