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織田信長に殺された悲劇の女城主「おつやの方」がたどった数奇な運命【上】
織田信長に殺された悲劇の女城主「おつやの方」がたどった数奇な運命【中】
戦国時代、織田信長(おだ のぶなが)の叔母である艶(つや。おつやの方)は東美濃(現:岐阜県南東部)の岩村城主・遠山景任(とおやま かげとう)に嫁ぎました。
夫の死後、子供がいなかったため信長が五男・御坊丸(ごぼうまる)を遠山家の養子にさせ、養母となった艶にその後見と岩村城主を務めるよう命じます。
ここに艶は女城主となったのですが、東美濃を織田家の勢力下に入れたことが気に入らない武田信玄(たけだ しんげん)は、家臣の秋山伯耆守虎繁(あきやま ほうきのかみとらしげ)に岩村城を攻めさせました。
最初は女城主と侮った虎繁でしたが、1ヶ月以上にわたる奮戦の末にどうにか攻略。降伏に際して「艶が虎繁の妻となれば、岩村城の皆を助命する」旨を伝えます。
皆の命を救うため、亡夫・景任への未練を断ち切って虎繁の妻となる決意を固めた艶(イメージ)。
亡夫への貞操と皆の命、そのどちらをとるか悩んだ艶でしたが、自分一人の我慢で御坊丸や皆の命が助かるのなら……と、虎繁に嫁ぐことを選んだのでした。
■信玄の死と武田家終焉の序章
さて、艶は元亀四1573年3月に虎繁と祝言を上げ、御坊丸は人質として甲府に連れて行かれました。
しかし信玄は御坊丸を手厚くもてなし、人質ではなく自分の養子として迎えたいと信長に申し出ていることから、御坊丸が利発な少年であったことが察せられます(艶の教育が良かったのかも知れません)。
御坊丸の存在が再び織田・武田両家の鎹(かすがい)となれば良かったのですが、信玄が4月に病没すると、その跡を継いだ武田勝頼(たけだ かつより)は亡き父を乗り越えんとばかりに織田への攻勢を強めました。

信玄の跡を継いだ武田勝頼。偉大な亡父を超えるべく奮闘した。
しかし天正三1575年5月に長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗を喫すると劣勢に立たされ、対する信長は反撃に転じ、嫡男・織田信忠(のぶただ)に岩村城を攻略するよう命令。
かくして同年11月ごろ、虎繁と艶たちは織田の大軍によって完全包囲されてしまいました。
■「散る花の美しさは……」虎繁が信長に降伏
織田軍はかねてより岩村城の糧道を寸断しており、勝頼からの援軍もままならない中、城内では約3,000の兵が戦う前から飢餓状態に陥っていました。
座して力尽きては武田の名折れ……虎繁らは11月10日、起死回生を期して信忠の本陣に夜襲を仕掛けましたが、織田の猛将である河尻秀隆(かわじり ひでたか)や毛利河内守長秀(もうり かわちのかみながひで)らによって返り討ちにされてしまいます。
この戦闘で、これまで艶に仕えてきた遠山家の一族郎党も遠山五郎友長(とおやま ごろうともなが)や小杉勘兵衛(こすぎ かんべゑ)ら多くが討死。武田方は侍大将21名に1,000以上の兵を失い、完全に戦意を失ってしまいました。
「もはや、これまでか……!」
11月21日、虎繁は使者を立てて織田方に降伏を申し出ると、信忠はこれを快諾。大叔母である艶の口添えが功を奏したものと思われました。
「散る花の美しさは、生き永らえて結ぶ実のため。さぁ、今は耐え忍んで勘九郎(信忠)殿にお礼を申し上げましょう」

織田の軍門に降る虎繁のイメージ。
信長の軍門に降る屈辱はほんのいっとき、いつか必ず武田が捲土重来を果たす時まで……そう言い聞かせたか、艶と虎繁は岩村城を後に、信忠の本陣へ赴いたのでした。
■「……夫と共に参りまする」長良川のほとりで逆さ磔に
しかし、艶と虎繁を待っていたのは非情な仕打ちでした。
「……勘九郎(信忠)殿!これは一体いかなる所存か!」
織田方の本陣へ入った二人はたちまち捕縛され、信忠の前へ引き出されました。
「相すまぬ……事情が変わったのだ。父上が『その方ら両名の降伏につき、相許さぬ』と仰せじゃ」
つまり「信忠は降伏を認めたが、鶴の一声(信長の意向)で覆された」ことを知らされ、虎繁は地団駄を踏んで悔しがるも、時すでに遅し。
そのまま二人は岐阜へと護送され、虎繁とその近臣らは逆さ磔(はりつけ)の刑と決まりました。

逆さ磔の刑。Wikipediaより。
「……なお、艶殿については女性(にょしょう)ゆえ、ご出家いただいて秋山殿の菩提を……」
「いえ、妾も夫と共に参りまする」
命だけは助けてやろうという信長の意向に背き、艶は自ら夫と同じ逆さ磔を願い出ました。もう二度と、伴侶と離れたくなかったのかも知れません。
「……との由(よし)にございまする」
戻った近習がそう伝えると、信長は健気にも夫に従い、あくまで自分に反抗する艶を忌々しく思ったか「ならば、望み通りにしてくれよう」と長良川のほとりで刑を執行。
天正三1575年11月26日、虎繁は享年49歳、艶は40代半ばと推測されます。
■エピローグ
ちなみに、御坊丸は織田家に戻った後に元服・改名して織田勝長(かつなが)と称し、武田家を滅ぼす甲州征伐に参戦していますが、かつて自分を可愛がってくれた信玄たちの思い出が残る甲斐国を制圧する胸中は複雑であったことでしょう。

滅びゆく武田一族。歌川国綱『天目山勝頼討死図』より。
また、一節には艶と虎繁の間には馬場六太夫(ばば ろくだゆう)という子供がおり、岩村城の陥落直前に逃がされて瀬戸内海の村上水軍に仕えたという伝承が残っているそうです。
六太夫は慶長五1600年9月18日の三津浜夜襲で討死したものの、その墓所は広島県竹原市にあり、近郷には六太夫の子孫が今も暮らしているということです。
そして岩村城址のある艶の地元・岐阜県恵那市では、町おこしのきっかけとして艶たちの功績を顕彰し、その活躍を次世代へ継承する試みが続いています。
【完】
※参考文献:
加藤護一 編『恵那郡史』恵那郡教育会、大正十五1926年
川口素生『戦国軍師人名辞典』学研M文庫、平成二十一2009年
平山優『新編 武田二十四勝正伝』武田神社、平成二十一2009年
木屋青子『馬場六太夫-口伝が明かす波乱の生涯』文芸社、平成十五2003年
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