イケメンで初陣の大阪の陣では若いながらも豊臣四天王として活躍を見せた豊臣方のエース的存在、木村重成(きむら-しげなり)。

実際にイケメンだったことは確かで「絶世の美男子」と称され、方広寺のことで徳川家康に弁明に行く際に侍女として女装した時は誰にもバレることのなかった逸話を持つほどです。


そして、性格もイケメンで自分を馬鹿にした茶坊主を許してしまう器量の持ち主で、誰も重成の怒った姿を見たことがないと言われています。

身も心もイケメンな重成ですが、その分度重なる悲劇に人生を翻弄された武将でした。今回は重成を襲った数々の悲劇を紹介します。

絶世の美男子…戦国時代が生んだ悲運の若武者・木村重成を襲った...の画像はこちら >>


木村重成/Wikipediaより

■父と兄とは生まれてすぐに別れへ

重成の生まれ年ははっきりしていませんが通説では文禄2年(1593)に生まれたとされています。父は木村重茲(きむら-しげこれ)で豊臣秀次に仕えていました。

しかし、重茲は文禄4年(1595)の秀次事件で秀次を弁護したことにより、重成の兄・高成と共に自害となります。当然、重成も処罰の対象でしたが、まだ幼かったことから母・宮内卿局(くないきょうのつぼね)と共に命は取られることはありませんでした。

絶世の美男子…戦国時代が生んだ悲運の若武者・木村重成を襲った数々の悲劇


豊臣秀頼/Wikipediaより

そして、宮内卿局が豊臣秀頼の乳母となると重成は秀頼の小姓として仕えることになります。2人は年齢が近いこともあって互いを信頼し合い、秀頼が元服すると重成は豊臣家の重臣として重宝されることになりました。

■妻と半年も経たずに別れを告げる…

慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件により豊臣家と徳川家の関係が険悪になり、同年に大坂冬の陣が勃発すると重成は今福の戦いで援軍として参陣します。

この戦が重成にとっては初陣となりますが、それでも臆することなく兵を指揮し、佐竹義宣の家臣・渋江政光(しぶえ-まさみつ)を討ち取ります。

初陣にして武将を討ち取る戦果を挙げた重成は「豊臣家に木村重成あり」と言わんばかりに全国に名を知らしめました。


そして和議が結ばれ、大阪冬の陣が終息すると重成は慶長20年(1615)1月に正室を迎えます。相手は大蔵局の姪である青柳で偶然見た重成にひとめぼれしたが故に、このような流れとなりました。

しかし、来たる大坂夏の陣で死を覚悟していた重成は同年5月に青柳と別れの盃を交わし、青柳と今生の別れをしました。

■若くして討ち死に…

慶長20年(1615)に大坂夏の陣が起こると重成は八尾・若江の戦いに出陣します。そして、奮戦空しく井伊直孝の家臣によって討ち取られ、20代前半の若さで人生の幕を閉じることになります。

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井伊直孝/Wikipediaより

重成の死から200年経った文政11年(1828)になると、重成の墓所参拝がブームとなりました。悲劇的な人生を歩んだ重成に共感したかどうか定かではありませんが、人々は重成のことを「残念様」と呼んで親しみました。

■最後に

重成の人生を見ているとまさに佳人薄命と呼びたくなります。生まれた時代がもう少し早かったら、長生きしていたかもしれません。

豊臣家が滅びる戦で死を覚悟してまで豊臣に忠義を示した重成は若いながら忠臣だったと考えてしまいます。

参考:永岡慶之助『大坂の陣・人物列伝「後藤基次・木村重成」』 (歴史群像デジタルアーカイブス) 

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