殉死や不祥事を起こさない限り、切腹する必要のない時代となった江戸時代に不祥事をしていないのに切腹をした大名がいました。
その人物は松平忠章(まつだいら-ただあき)。今回は忠章がなぜ切腹をしたのか紹介したいと思います。
月百姿 月岡芳年 画
■対照的な親子
忠章は松平家の一門、久松松平家出身で文武両道に秀でていました。しかし、父の松平忠充(まつだいら-ただみつ)は忠章と対照的に暗愚な人物で周囲を恐怖のどん底に叩き落していました。
その片鱗を見せるようになったのは忠充が伊勢国長島藩の2代目藩主になり2年経った貞享4年(1887)の時に、些細な理由から家臣を3人追放したことから端を発します。
そのような父を持った忠章は次第に忠充に不満を抱き始め、しまいには2人の関係性に溝ができてしまいました。
そんな関係のまま迎えた元禄元年(1688)にある事件が起きます…。
■次第にストレスが溜まっていき…
ある日忠章は忠充によるストレスと疲れからか城内でうたた寝していました。やがて目を覚ますと、自身の知らない間にお腹に刀が突き刺さっていました。なんと忠章は寝ぼけて切腹をしていたのです。
異変に気がついた家来が直ちに近寄ると、忠章は自身の無事を伝え手当を受けました。
そして、次期藩主の座は忠章の弟、松平康顕(まつだいら-やすあき)に譲られることになりました。
■その後の久松松平家
忠章が起こした事件から約30年後、忠充の暴君ぶりが幕府に知られるようになると長島藩は改易となってしまいます。しかし、久松松平家は徳川家康の異母弟、松平康元に繋がる家系だったので特別な配慮を受け、以後旗本として存続しました。
肝心の忠章はそのような扱いを受けることはなかったので、生母の領地である丹波国篠山に移住しました。
■最後に
将来を期待されているが故に頑張ろうとした結果、キャパシティーオーバーによって誰も予想できないことをしてしまう。このように優秀な人物ほどストレスを抱えてしまうのは現代でもあり得ることです。
忠章のようになってしまわないように、時には肩の力を抜いて生きていくことも必要だと感じさせられました。
参考:歴史の謎を探る会『江戸の時代本当にあったウソのような話』
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