真田家は父・昌幸と幸村が石田三成の西軍に、そして信之は徳川家康の東軍にそれぞれ参加することにしました。
この選択がどんな状況で行われたのか、またどのような狙いがあったのかということはいまだ様々な説が唱えられており、はっきりしたところがわかっておりません。
「真田父子 犬伏密談図」上田市立博物館蔵
通説とされているのは、人払いを行って三者で真田家の去就について話し合ったというもの。長い協議が続く室内が気になった河原綱家という家臣がふと部屋を覗くと、昌幸が「誰も部屋に入るなといったはずだ!」と叫び、履いていた下駄を投げつけたといわれています。
その一方で、協議ではなく意思確認程度のごく短い会合だったとの説や会合そのものが行われていなかったという説もあり、親子間でどんな取り決めがなされたのか、それともなされなかったのか、本当のところはよくわかっていません。
いずれにせよ、結論として真田親子が選んだのは、敵味方に分かれて戦うという選択肢でした。
また、どうして親子間で別々に分かれたのかということについても諸説あります。
最も知られているのは、西軍・東軍どちらが勝っても真田家が存続するよう、敢えて敵味方に分かれたとするもので、もしそうならば、智将として知られていた昌幸らしい方法です。
また、西軍のほうが勝利の時の恩賞が良かったことから、真田家拡大を狙ったものだとする説もあるようです。父子で別々に戦ったということに関しては、この他にも、双方が歩み寄りを願ったものの、どちらも譲らず別々の道を選んだという説やこの時点で真田家は二派の独立した大名になっていたので、意思統一せず、自らの意思に従ったなどという説もあります。
当時どちらに味方するかということについては、当時の婚姻関係が重視されたという説が有力なようです。信之の妻・小松は、徳川四天王のひとり本多忠勝の娘だったことはよく知られていますし、幸村の妻は、西軍の大谷吉継の娘であり、昌幸の娘は、石田三成の義弟・宇田頼次の妻となっていました。
このように考えると、それぞれの立場から自然と両軍に分かれていったと考えた方が筋が通ります。
結果的に関ヶ原の戦いでは、西軍が破れてしまうわけですが、西軍が破れてからも、真田家は信之によって存続。以来明治に至るまで真田家の名前は残されました。
参考
- 中村 彰彦『真田三代風雲録』(2012 実業之日本社)
- 『真田三代 その強さの秘密に迫る! (幸隆・昌幸・幸村 戦いの系譜)』
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
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