1582年、織田信長の元に中国遠征中の羽柴秀吉より援軍要請が届きます。信長はただちに出撃準備のために上洛し、本能寺に逗留しました。
そこへ突然、明智光秀が兵を率いて急襲。信長はなすかいもなく、建物に火を放ち、炎のなか自刃したと伝えられています。

この騒動が後の世にいう「本能寺の変」です。

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紙本著色織田信長像(狩野元秀画、長興寺蔵)

どうして信長はこの日、守りの薄い寺院で寝泊まりし、警備に少数の者しか置いていなかったのでしょうか。油断をしていたのでしょうか?

実は最近の研究で、本能寺は本能寺の変の二年前に本堂を改築し、堀や石垣などを設けるなど防御に優れた城砦になっていたということがわかってきました。実際、2007年の本能寺跡の発掘調査では、堀や強固な石垣の遺構が検出されています。
信長は決して油断をしていたわけではなかったのです。

いかに堅固な城砦であろうと、相手との兵力人数には大きな差がありすぎました。信長はおそらく援軍が来るまでの時間稼ぎができればよいと考えていたのでしょう。万が一援軍が間に合わなかったとしても、味方が態勢を整える時間はなんとか稼げたはずと。

当時、信長とともに秀吉へ援軍に向かうべく、京都の妙覚寺に嫡男の信忠が滞在していました。信忠は光秀謀反の知らせを受けると救援に向かおうとしますが、時すでに遅し。


信長自刃の報告が届くと、京都所司代・村井貞勝の助言を受けて二条御所に入ります。このときの決断が、後々振り返ると歴史的に重要な分岐点となりました。信忠は二条御所に籠城して善戦しましたが、圧倒的な兵力の差になす術もなく、自刃して果てるのです。

もしも織田信長の嫡男・信忠が落ち延びていたら?織田家の天下統一が実現していた可能性はいかほど


織田信忠蔵 (総見寺蔵)

さて、もしここで信忠が二条御所に入らず、京都から落ち延びていたらどうだったでしょう。

その後の展開が示すように、光秀に与するものはほとんどおらず、一方信忠は信長の嫡男であったため、態勢を整え、家中の武将たちを率いて復讐にのぞめば、十分光秀を滅ぼすことができたのではないでしょうか。

その場合、史実では信長の後継者の座にいた秀吉が力を持つこともなく、織田家による天下統一が実現していた可能性が高くなります。


もちろん、これは今となってからのお話。結末を知っている現代人の我々が、当時を生きた人々の決断を評価することはフェアではありませんし、立場が違います。

いずれにせよ、史実は織田信長が自刃し、その権力の座は、光秀、豊臣秀吉へと引き継がれてゆくのです。

参考

  • 斎藤 忠『天正10年の史料だけが証す本能寺の変の真実 』(2019 実業之日本社)
  • 藤田 達生『本能寺の変』(2019 講談社学術文庫)

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