明智光秀(あけち みつひで)の娘婿となり、その片腕として文武両道の活躍を見せた明智秀満(あけち ひでみつ)。

一説には、主君・織田信長に対して謀叛(クーデター)すべきか悩んでいた光秀の背中を押して決起せしめたとも言われ、歴史の転換点における重要な役割を果たしました。


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安土城天守閣(を模したイメージ建物)。

さて、後世「本能寺の変」と呼ばれるこの一大事件において、信長の築き上げた天下に比類なき名城「安土城(あづちじょう。現:滋賀県近江八幡市)」が焼け落ちてしまいます。

その犯人について、古来「(当時安土城を占領していた)明智秀満が火を放ったせいだ」とする言説が流布していますが、それは「負ければ賊軍(※勝てば官軍、の対語)」の心情で、不都合の全責任を明智軍に押しつけようとしているだけです。

どうしてそう言えるのか、又それなら安土城を焼いた真犯人は誰なのか、今回はその辺りについて紹介したいと思います。

■秀満が安土城を占領するまで

明智秀満の出自や前半生については諸説ありますが、ここではひとまず天文五1536年生まれ説を採用。幼名を岩千代(いわちよ)、元服して三宅弥平次(みやけ やへいじ)と称します。

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明智左馬光春(秀満)。知勇兼備の名将として知られた。Wikipediaより。

その後、天正六1578年以降に光秀の出戻り娘を妻に迎えたことで婿となり、明智秀満と改名しました。彼女は信長の家臣である荒木村次(あらき むらつぐ)に嫁いでいましたが、舅である荒木村重(むらしげ)が謀叛を起こしたため、離縁されてしまったのでした。


正直「いわくつき」の縁談ではありましたが、秀満はこれを快諾。光秀への篤い忠義が、彼女に対する深い愛情にもつながっていった事でしょう。

天正九1581年には丹波福知山城(現:京都府福知山市)の城主となり、光秀が茶会を開いた際には天下三大茶匠の一人として知られた津田宗及(つだ そうぎゅう)を招いてその饗応役を務めており、相当にハイレベルな教養を備えていたことが判ります。

そして天正十1582年6月2日未明、運命の本能寺では先鋒を任され、光秀からの信頼に応える戦果を上げた後、6月5日には信長の本拠地である安土城を占領したのでした。

■秀満が安土城を焼かなかった理由

しかし、それから間もなく光秀は「山崎の戦い(6月13日)」でライバル・羽柴秀吉(はしば ひでよし)に敗れて命を落とし、その報せを受けた明智軍は総崩れとなって本拠地である坂本城(現:滋賀県大津市)へと潰走します。

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落ち武者狩りに命を落とした明智光秀(左奥)。月岡芳「月百姿 山城小栗栖月」

そのどさくさで、秀満が「敵の手に返してなるものか」とばかり安土城に火を放った……と、大村由己『秀吉事記』や小瀬甫庵『甫庵太閤記』に言及されていますが、秀満が本当にそんな暴挙に及んだのでしょうか。

……と言うのも、秀満は坂本城で自害する6月14日、保有していた銘刀(国行の太刀、吉光の脇差)や虚堂智愚(きどうちぐ。宋代の禅僧)の墨蹟など数々の名宝が失われてしまうことを惜しんで、目録を添えて寄せ手(攻城軍)に差し出したほどの文化人。

信長の本拠地であればもっと多くの財宝が眠っていたでしょうし、それを行きがけの駄賃とばかり火を放つような軽挙妄動に及ぶとは考えられません。

また、秀満が光秀の死を知ったのが6月13日深夜として、14日の内には坂本城まで撤退して戦い、自害していますから、とても安土城を焼き払う時間的余裕はなかった筈です。

加えて、坂本城への撤退は態勢を立て直すのが目的ですから、火など放ったら動静が敵に知られてしまう(追撃されるリスクが高まる)ため、得策ではありません(そのくらいは心得ていた筈です)。


■それでは、安土城を焼いた真犯人は?

そして何より、安土城が焼失したのは秀満が自害した翌日(6月15日)。宣教師ルイス・フロイスの記録「日本耶蘇会年報」によれば、秀満が退却した後に入城した織田信雄(おだ のぶかつ。信長の次男)の不始末を火災の原因としています。

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愚鈍として評判の悪い織田信雄。Wikipediaより。

「奇狂であるのか愚鈍であるのかでないのだとしたら、なぜそんなことをやったのかわからない」
※ルイス・フロイス「日本耶蘇会年報」より。

当時、信雄は秀満が完全に撤退したのを知った上で占領しておきながら、焼かなくてもいい安土城を焼き払ってしまい、この愚挙が後世まで愚鈍とされる信雄の評価に大きな影響を及ぼしました。

では、なぜ大村由己『秀吉事記』や小瀬甫庵『甫庵太閤記』では秀満の仕業とされたのかと言えば、考えられるのが「秀吉への忖度(そんたく)」です。

彼らの主君であり、明智光秀・秀満らを打ち破った羽柴秀吉は、後に清州会議(信長の後継者争い)で信雄を推したため、信雄の愚鈍なエピソードを書こうものなら、遠回しに秀吉の見る目を疑う事になってしまいます。

(※もっとも、当時の秀吉として見れば「神輿は軽くてナントカが良い」と思って推したのでしょうが)

そこで「死人に口なし」とばかり、天下の名城・安土城を焼いた犯人を秀満にしてしまえば明智一派にヘイトが集まり、それを倒した秀吉の正当性(ついでに自分の評価)も高まって申し分なし……そんな事情が推測されます。

■まとめ

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信長の栄華を偲ばせる安土城の威容(イメージ)。

新たな時代を切り拓いた革命児として評価され、人気が高い信長を殺したことによって悪役とされてしまった光秀や秀満たち。


しかし、世の中は必ずしも善悪だけで割り切れるものではなく、光秀たちにも言い分があり、信長にも相応の非がなかったとは言い切れない筈です。

とかく「勝ちさえすればいいんだよ(=負けたら何をされても文句は言えない)」的な言説がまかり通り、勝者に媚びる一方で「水に落ちた狗を棒で叩く」のが好きな世の中ですが、たとえ敗れようと道義をまっとうした者には、公正な評価がなされるべきではないでしょうか。

※参考文献:
藤本正行・鈴木眞哉『新版 偽書『武功夜話』の研究』洋泉社、2014年3月21日 初版

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