江戸時代に各藩の大名がお国許からお江戸まで1年ごとに交代で出仕していた参勤交代制度。

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参勤交代といえば長ーい行列を思い浮かべる人もいるでしょう。
しかし意外にも、幕府は1615年に制定した「武家諸法度」では20~100万石の大名は20騎以下、10万石以下の大名は分相応に応じるとしていました。

しかし財力などを示す見栄のために、どんどん従者を増やしてしまう大名もいて、幕府は何度も人数制限しろと布告していたそうです。

一万石以下の小さな藩は、「騎馬3、足軽20、人足30」と決められていました。すごく寂しい行列ですね。伊勢参りの団体旅行のほうが多いこともあったりして。

基本的なルールは、

  • 西国の大名は3月の末から4月上旬に江戸に到着、東国の大名が入れ替わりに帰る。次の年はその逆になる。
  • 譜代大名は6月に江戸へ、半年ごとに領地と江戸を行き来することになっており、なかでも関東の譜代大名は2月か8月に江戸へ来ることになっていました。
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■大名行列は派遣頼み?

初期の大名行列では宿から宿へ荷物をリレー形式で運ぶ「宿継人足」が使われていましたが、何度も雇い直しをするため、手間と手間賃がかかり悩みの種でした。そこで現在の請負業者に似た、「通日雇」という人足が登場。国許から江戸までの荷物を運ぶというので、多くの藩が頼ることになりました。

すると更に通日雇を専門に斡旋する「六組飛脚問屋」という業者が登場。
現在でいうと派遣業者というところでしょうか。駕籠かきや槍持ちもさせていたというから、驚きです。

また江戸詰めの期間中、上屋敷から江戸城へ登城する行列にも日雇人が雇われていました。そのため、「桜田門外の変」では、当主の井伊直弼を守るべき家臣が少なかったため、命を落とした一因ともいわれています。

■江戸では土下座なし?

時代劇ではよく平民が、大名行列に出くわすと慌てて土下座する場面が描かれますね。しかしこれ、頻繁に大名行列に出くわすことの多い江戸の中では、平民は土下座する必要はなかったのです。

「下にぃ、下にぃ」といって土下座させられるのは、将軍家・御三家・御三郷だけで、他の大名は「寄れ」といって脇に寄らせるだけでした。

ちなみに他の大名も将軍家・御三家・御三郷に出会うと、藩主が駕籠を下りて挨拶しなければなりませんでした。

地方の大名たちが「下にぃ~」と威張れるのは、江戸の領域を出てから。自分の領地に戻ると更に強い態度を取っていたようです。

知られざる参勤交代のあれこれ。大名行列は派遣頼み?江戸では土下座をしなかった?


■近道、おしゃべりはだめよ

道中は藩によってさまざまな決まり事があり、なかには田圃を通って近道しない、おしゃべりしない、宿に着いたら女遊びをしない、喧嘩しないなど「修学旅行の高校生かよ」と言いたくなるものも。

同じ藩士同士の喧嘩の場合、喧嘩両成敗で切腹させられた武士もいたようです。


■藩主が具合が悪い場合は?

島原藩の4代藩主・松平忠刻は途中で持病の痔や水腫があり、亡くなってしまいました。

ただ、幕府への跡継ぎの報告なしに藩主が空位になってしまうと、藩の取り潰しにつながりかねず、道中で亡くなったとは伝えらないため、死亡を伏せたまま藩主療養の願いと、嫡男への代替わりの願いを同時に出して、何とかしたようです。

参考文献:『参勤交代の不思議と謎』

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