残念ながら、彼は永禄四1561年「(第四次)川中島の合戦」で自分の策略をライバル・上杉謙信(うえすぎ けんしん)公の軍師である宇佐美定行(うさみ さだゆき。定満)に見抜かれた責任をとって敵襲を食い止め、あえなく散華(討死)してしまいました。
壮絶な討死を遂げた山本菅助(道鬼)。
しかし、山本勘助の伝説はその名と共に子孫たちへと受け継がれ、戦国乱世が過ぎ去った江戸時代においても兵法家として活躍していたことはあまり知られていません。
そこで今回は、山本菅助の子孫たちを紹介していきたいと思います。
■山本菅助・七代の系譜
最初に、今回登場する「山本菅助」たちを家督継承順にリストアップします。
初代:山本菅助晴幸(はるゆき。山本勘助のモデル)
二代目:山本兵蔵幸房(ゆきふさ。晴幸の嫡男・二代目菅助)
三代目:山本十左衛門尉幸俊(ゆきとし。晴幸の娘婿)
四代目:山本平一郎幸明(ゆきあき。幸俊の長男)
五代目:山本三郎右衛門正幸(まさゆき。幸俊の四男。
六代目:山本菅助(諱は不詳。正幸の嫡男。四代目菅助)
七代目:山本十左衛門尉(諱は不詳。四代目菅助の養子)
※諱(いみな。本名)については諸説あります。
以降、幕末まで存続していくのですが、その道のりは決して平坦なものではありませんでした。
理解の助けとなるよう略系図も載せておきますので、照らし合わせながら読んで頂ければと思います。

■二代目・山本兵蔵幸房(二代目菅助)
※天文二十二1553年5月11日生~天正三1575年5月21日没(23歳)
晴幸の実子で幼名は兵蔵(へいぞう)、文献によって勘蔵信供(かんぞう のぶとも)と表記されることもありますが、これは伝説上の勘助と兵蔵が混じった通称かも知れません。
永禄四1561年9月10日(9歳の時)、川中島の合戦(第四次)で父・晴幸が討死したため、義兄(姉婿)の十左衛門尉幸俊(じゅうざゑもんのじょう ゆきとし)に後見されて育ちます。
永禄十一1568年、16歳で元服して「二代目・山本菅助」を襲名、主君・武田家より小者6名の軍役を課せられます。その後の戦歴は不明ですが、外征にせよ、守備にせよ、伝説の軍師・山本菅助の嫡男として大きな期待が寄せられたことでしょう。

長篠合戦図屏風(一部)
しかし信玄公の死(元亀四1573年4月12日)から2年後の天正三1575年5月21日、織田・徳川連合軍との戦い(長篠の合戦)で討死してしまいます。
23歳という若さで亡くなった幸房に代わり、義兄の十左衛門尉幸俊が家督を継承しました。
■三代目・山本十左衛門尉幸俊
※生年不詳~慶長二1597年没
甲斐国臼井阿原郷(現:山梨県中央市臼井阿原)の領主・饗庭越前守利長(あえば えちぜんのかみとしなが)の次男として生まれ、天文二十1551年に男子のなかった山本菅助(初代・晴幸)に婿入りします。
しかし、その2年後に兵蔵(二代目菅助・幸房)が生まれたため山本家の跡取りから外され、初代菅助が川中島で討死した後は、兵蔵の後見人となります。
そして天正三1575年「長篠の合戦」で兵蔵が討死すると山本家の家督を継承、武田家より鉄炮・鑓(槍)5名の軍役を課せられますが、先代に課せられた小者6名に比べて負担が重くなっており、長篠の敗戦以来、傾きつつあった武田家の苦境が察せられます。

武田家の滅亡、天目山で自刃する勝頼主従。月岡芳年「勝頼於天目山遂討死図」
それでも幸俊は期待に応えるべく必死に武田家を支えますが、ついに天正十1582年3月11日に武田家が滅亡。主を失った甲斐・信濃・上野国は南から徳川家康が、東から関東の雄・北条氏直(ほうじょう うじなお)が乗り込み、また現地の諸勢力も叛旗を翻しての大混乱に陥りました(天正壬午の乱)。
この時、幸俊は所領の安堵を条件に家康への臣従を決断。他の武田遺臣たちと共に「信玄直参衆」として旗本に取り立てられます。
その後、慶長二1597年に亡くなり、家督は嫡男の平一郎幸明(へいいちろう ゆきあき)が継承しました。
【続く】
※参考文献:
海老沼真治編『山本菅助の実像を探る』戎光祥出版、2013年
丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
笹本正治『軍師山本勘助―語られた英雄像』新人物往来社、2007年
山梨県立博物館編『実在した山本菅助』山梨県立博物館、2010年
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