-弘法大師空海が高野山を開創した当時、中院を中心に北室・西室・南室を建立したといわれ、北室(現在の北室院)は谷上地区に建立された。北室院は諸大名の帰依を受けたが、特に仙台伊達家の帰依は深かった-
参照:北室院

奥の院は、弘法大師の御廟のあるところですが、ここへ入るには一の橋(大橋)を渡ります。壇上(胎蔵界)と奥の院(金剛界)を区画する橋です。
その一の橋を渡ってすぐ左手に、伊達家二代忠宗公と三代綱宗公、となりに宇和島伊達家の墓所がありますが、さらに参道を進んで右側に伊達政宗公の墓所があります。
つまり伊達家の墓所は、2か所に分かれています。

左が仙台伊達家、右奥が宇和島伊達家
高野山で一番大きな五輪塔は、二代将軍徳川秀忠の北の方(崇源院殿 一般には江)で、政宗公の墓塔は山内では第四位の大きさだそうです。

伊達家墓所のどちらもすごい数の墓石が囲んでいますが、仙台藩の殉死者は全て五輪塔で、高野山における殉死者の扱いは極めて丁重なものであったことがわかります。
仙台藩殉死者は高野山でも特異な存在になってるそうで、他の諸大名は2~3名にすぎないのに伊達政宗公は20名、二代忠宗公で16名、他大変な数の殉死者を出しています。
伊達家歴代、政宗の父までは少ないですが、政宗の代になって急増します。これでは重鎮が次々いなくなり政治が機能しない、ということで殉死禁止の令が出るのですが、それでもおさまらなかったのです。
仙台藩は「君臣の結びつきが強大だった」だけでは済まない、もっと奥深いものがあるのかもしれません。
山内で、伊達家ゆかりの寺がもうひとつあります。

伊達の三傑(片倉小十郎・伊達成実・茂庭綱元)のひとり茂庭綱元は、後見役となった政宗の五男宗綱が早世すると、その菩提を弔うため高野山に入道して”了庵”と名乗り、三年間にわたって供養を行いました。その寺が「成就院」です。
綱元はこのとき70歳。政宗公が「行くな」と引き止めた記録が残っています。
その3年前までは、真田幸村が父昌幸とともに高野山の入口に当たる九度山に幽閉されていました。幸村はのちに大坂夏の陣(1615)で覚悟を決めたとき、自分の幼子4人を伊達家臣の片倉小十郎重長に預けます。そのうち男子真田大八(1612生)は九度山で生まれています。そして仙台藩に庇護されのちの仙台真田家へと血脈が繋がるのです。
綱元が山を下りて仙台へ戻ったのが1620年。この年、フィリピンに足止めされていた支倉常長(政宗の遣欧使節)と、松平忠輝公と離縁させられた五郎八姫(政宗の長女でキリシタン)が同じく仙台入りしています。
1620年は、奇しくも星の街仙台のキーパーソンの奇妙な一致が見て取れる年です。
参照:
- 高野山と仙台藩 大林昭雄著
- 星の街仙台
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