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信長だけが織田じゃない!マイナー織田家に仕えて信長に対抗した戦国武将・角田新五【中】
戦国時代、尾張国(現:愛知県西部)の地方領主であった守山城主・織田信次(おだ のぶつぐ)は、家臣が甥・信長の弟である織田秀孝(ひでたか)を殺してしまい、信長の報復を恐れるあまり、家臣を見捨てて逃げ出しました。
守山城に残された筆頭家老の角田新五(つのだ しんご)は坂井喜左衛門(さかい きざゑもん)らと共に籠城し、攻めて来た織田勘十郎信勝(かんじゅうろう のぶかつ。
激戦の末、ボロボロになったところで「織田安房守信時(あわのかみ のぶとき。信長の異母弟)を守山城主に迎えるなら、和睦してやる」と条件を出され、新五らはこれを快諾。
新たな守山城主となった信時を喜左衛門と共に補佐し、これで一件落着かと思いきや、またもや新たなトラブルが新五を悩ませるのでした……。
■ついに下克上!主君・織田信時を粛清
さて、喜左衛門には坂井孫平次(まごへいじ)という息子がおり、これが大層なイケメンと言うか中性的な美貌を備えていたそうで、主君・信時はすっかりメロメロになってしまいました。
「そなたは愛(う)いのう、女物がよう似合う……」孫平次にすっかり鼻の下を伸ばす信時(イメージ)。
いわゆる男色ですが、孫平次に対する寵愛はよほど深かったようで、信時の外戚(?)となった喜左衛門は「双(なら)びなき出頭(=出世)」を遂げたことが『信長公記』に残されています。
これまで守山城の筆頭家老は新五でしたが、いつしか喜左衛門の方が重用されるようになると、粗略に扱われる新五は当然面白くありません。
「おのれ喜左衛門……このわしを差し置いて、色仕掛けで取り入りおって……」
坂井一族を粛清するべく一計を案じた新五は、戦火によって損壊した守山城の修復・増強工事を開始します。
「あ、御屋形様。これからしばらく職人さん結構出入りしますんで、よろしくお願いしやーっス」
とは多分言っていないでしょうが、そんなノリで油断させて城郭に侵入口を確保。信時が孫平次と喜左衛門を侍らせて「うむうむ、工事は順調のようじゃな……ははは」と油断していたところへ、夜陰に乗じて手勢を城内へ引き込みます。
「新五……これは何の真似じゃ!」

「お楽しみのところ、申し訳ござらぬが……」信時らを襲撃する新五(イメージ)。
一つ布団の中で孫平次と夢心地なひとときを楽しんでいた信時は、褌一丁で新五の手勢に取り囲まれてしまいました。
「問答無用……ここで腹を召されるか、可惜(あたら)首を討たれるか……選べ!」
「……無念……っ!」
かくして信時は詰腹を切らされ(切腹を強要され)、孫平次と喜左衛門も討たれたのか、あるいはどさくさに紛れて逐電したのか、その後の記録には登場しません。
■かつて敵対した信勝に仕える新五、そして守山城主に返り咲いた信次
かくして主君・信時と坂井一族を討ち果たした新五でしたが、その後の展望についてはあまり計画していなかったようで、大穴が空いた状態の守山城に立て籠もったところで勝算はありません。
そこで仕方なく、前に敵対した信勝の家老・林佐渡守秀貞(はやし さどのかみひでさだ。林通勝)に庇護を求めました。
「恥を忍んでお頼み申す……」
(……ちょwwwおまwwwいっときの嫉妬に狂って後先考えずに城に大穴をあけて主君を殺すとか計画性なさすぎwww)
秀貞は間違いなくそう思ったことでしょうが、主君・勘十郎信勝が信長と争っている今、手駒に使えると判断して新五を味方に引き入れます。

新五の帰順を受け入れる林佐渡守(イメージ)。
「勘十郎様のお気持ちも解りますが、あの角田めはそれなりに戦も上手(うも)うございます故、三郎(信長)殿を倒すまでは、利用してやりましょう……」
「……まぁ、佐渡がそこまで申すなら……」
という訳で、今度は信勝に仕えることとなった新五ですが、対する信長の方では、信時を殺されたことについて、あまり怒ってはいなかったようで、新五を罰する旨の命令は出していません。
その理由については諸説ありますが、信長は守山城主に任じたものの、異母弟である信時を疎んじており、新五が手を下してくれてむしろラッキーくらいに考えていた可能性もあります。
ともあれ、信長は放浪していた叔父・信次を呼び戻して以前の(家臣が秀孝を殺した)罪を赦し、再び守山城主にあてがったという事です。
■最早これまで!稲生の決戦で壮絶な最期
その後も信勝は織田の家督を狙って信長との対立は激化の一途をたどり、ついに弘治二1556年8月24日、稲生(いのう。
「者ども!敵(信長軍)は寡勢ぞ、恐るに足らぬ……かかれーっ!」
「「「おおぅ……っ!」」」

稲生の合戦に臨む新五たち(イメージ)。
信勝の軍勢1,700に対して、信長の軍勢は700足らず、倍以上の兵力差に勝負は一瞬かと思われましたが、信勝方の一翼を担っていた林美作守通具(はやし みまさかのかみみちとも)が信長の手で討ち取られると、陣形が破綻の兆しを見せます。
「こらっ……退くな!怯むな!」
また、もう一翼を担っていた信勝の猛将・柴田権六郎勝家(しばた ごんろくろうかついえ)は予め信長と内通しており、これによって味方は崩壊してしまいました。
「最早これまで……かくなる上は名をこそ惜しむ……一人でも多く冥途の道連れじゃ!」
たとえ逃げて、この場を生き延びたところで、武士としての生き場所はない……そう覚悟した新五は果敢に突撃。信長方の松倉亀介(まつくら かめのすけ)に討ち取られてしまったそうです。
かくして、後世に言う「稲生(稲生原)の合戦」は信長の完全勝利に終わり、降伏した信勝は生母・土田御前(どたごぜん)の助命歎願によって処刑を免れたものの、再び謀叛を企んだため、翌弘治三1557年11月2日に暗殺されてしまいました。
これによって信長の家督継承は盤石なものとなり、やがて尾張国を統一し、天下布武への表舞台へと踊り出していくのですが、そのエピソードについては、又の機会に。
【完】
※参考文献:
和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料』中公新書、2018年
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、2010年
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