昔の人は、よく「嫌よ嫌よも好きの内」などと言いまして、多くの女性は口先でこそ拒否していながら、その内心では満更でもなく思っているものだから、男性諸君は大いにアプローチして差し上げたまえ……かつてはそんな価値観が蔓延していました。

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(言わなくても、察して欲しい……)

でもそれは「※ただしイケメンに限る」のが実態で、冴えないおっさんからのアプローチなんて単なるセクハラですし、しつこく食い下がればたちまちストーカーとしてお縄の憂き目を見ることになります。


また、外見ではツンケンしていても、内心ではデレて(好意を持って)いる……そんな「ツンデレ」などという言葉もありますが、ほとんどの場合が心の底から拒否しているであろうため、男性からは下手にアプローチしないのが賢明です。

しかし、それでも意中の女性をものにしたくてたまらない男性というのは今も昔もいるようで、今回はどこまでもしつこい男と、それを命懸けで拒絶し続けた女のエピソードを紹介したいと思います。

■野心家・津軽為信のあくなき欲望

今は昔の戦国時代、陸奥国鷹岡(現:青森県弘前市)に津軽為信(つがる ためのぶ)という大名がおりました。

戦国時代、結婚を拒んで壮絶な最期を遂げた悲劇の美女・藤代御前の怨霊伝説【上】


革秀寺蔵「津軽為信 肖像」Wikipediaより。

一代の梟雄として知られ、元は東北地方の大大名・南部(なんぶ)一族に従っていましたが、主家の衰退に乗じて独立。その政治手腕は

「天運時至り。武将其の器に中らせ給う」
※『津軽一統志』より

【意訳】天運に巡り合い、その将器を存分に活かした

などと高く評価され、郷土の英雄として現代に伝えられています。

そんな為信は「英雄、色を好む」の例に洩れず、正室・阿保良(おうら。別名:お戌の方)、側室:栄源院(えいげんいん。俗名不詳)との間に多くの子をもうけましたが、それだけでは満足できず、更なる側室を探し求めたそうです。

「されば、よき女子(おなご)がおりまする……」

家臣の言葉に、為信は食いつきました。

■美人妻に一目ぼれした為信、夫の抹殺を企む

その女子とは、鷹岡よりほど近くの藤代村を治める領主の妻で、近郷随一の美女と評判な藤代御前(ふじしろごぜん)……現代なら略奪愛を勧められた為信ですが、その反応はイマイチでした。


「なんじゃ……人妻か。夫が黙っておらんだろうから面倒くさいし、そもそも他人のお下がりなんて嫌じゃ」

「いえいえ、当人をご覧になったら、左様なお気持ちなど吹き飛びましょうぞ……」

そこまで言うなら、まぁ一目……という訳で藤代まで繰り出した為信ですが、家臣の言った通り、あるいはそれ以上の美貌を前に、為信は心を奪われてしまったのでした。

戦国時代、結婚を拒んで壮絶な最期を遂げた悲劇の美女・藤代御前の怨霊伝説【上】


見初められてしまった藤代御前。これが悲劇の始まりだった(イメージ)。

「わしはあの女子を、何としてでも手に入れるぞ!」

思い立った為信は、まず藤代御前の夫(本名不詳のため、仮に藤代某とします)に「妻を引き渡す」よう伝えます。現代ならパワハラもいいところですが、藤代某も戦国武士ですから、たとえ主君と言っても、理不尽な要求は頑として受け入れません。

「……妻にとってはこの上なく名誉な縁談にはございましょうが、卑しくも夫としてかの女子を我が庇護下に置きたる上は、仮令(たとい)主の仰せとて、お受けする訳には参りませぬ」

「……おのれ藤代!わしに恥をかかせおったな!」

毅然とした態度に逆ギレした為信が次に考えたのは、藤代某の抹殺でした。

【続く】

※参考文献:
青森県文化財保護協会『津軽歴代記類』青森県文化財保護協会、昭和三十四1959年
稲葉克夫『青森県百科事典』東奥日報社、昭和五十六1981年

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