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江戸の家康、仙台の政宗の鬼門封じ:江戸時代の地理風水を駆使した都市設計【1】

伊達政宗は、山形の米沢城で生まれ育ちましたが、豊臣秀吉の奥州仕置に合い宮城県北部の大崎岩手沢(現・岩出山)へ移封されました。その岩手山城の縄張りを行ったのが徳川家康です。


-政宗の移封に先立ち、当時奥州の検地を行っていた徳川家康は岩手沢城に約40日滞在し、その間に城の縄張りや改修修築を行った後に伊達政宗への引渡しを行ったと言われる。 尚この時に「岩手沢」から「岩出山」へと改められた。 以後仙台城築城までの12年間伊達政宗の居城となる(この時期、伊達政宗は「大崎少将」を名乗った)-wikipediaより

伊達政宗は徳川家康の作った城に住まわされ…:江戸時代の地理風...の画像はこちら >>


慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いの年、政宗はこのどさくさにまぎれて幕府から築城許可をとったようなものです。(家康との間で密儀があったか)

仙台城の候補地として政宗が届け出たのは

第一候補 仙台青葉山

第二候補 仙台榴ヶ岡

第三候補 仙台大年寺山

第四候補 石巻日和山

政宗の本意は、第一希望が榴ヶ岡でしたが、家康の心理を読み第一ははずすだろうと考えたのですが、家康はその裏をかいて第一候補の青葉山に許可したとされます。

12月24日、政宗は青葉山に登り縄張り始めを行い、地名を千代から仙台へと改めました。

青葉山には元々政宗の叔父である国分氏の城があって、その正確な鬼門方位(玉手埼)に天神社がありました。


だから築城開始した時点で、六芒星の6地点のうち、青葉山・玉手埼・榴ヶ岡の3点はすでにおさえてあったことになります。

徳川家康(with天海)は、「当時奥州の検地をおこなっていた」とありますから、岩出山の行き帰りに当然仙台の地理も調べていたことでしょう。

現・仙台東照宮のある場所(玉手埼)は、政宗の案内で家康公が休憩したといわれるゆかりの地です。

参照:仙台東照宮

家康が江戸の鬼門に水戸を、さらに仙台を置こうとしたなら、家康の風水ヲタクっぷりからして、政宗の好きにはさせなかったと想像します。

江戸の繁栄のために、完璧なまでの守りを造ろうとしたかもしれません。

■仙台城は別名青葉城ともいいます

青葉山は山城ですから、天守は必要が無い、もしくは幕府に遠慮して造らなかったと言われていますが、実は政宗は天守を建てる気満々だったようで、天守台の痕跡が城址敷地内にあるようです。
詳しいことはわかっていません。

仙台城の特徴はなんといっても『懸造-かけづくり』でしょう。京都の清水寺にある崖にせり出した建造物と同等のものがあったのです。
伊達政宗は徳川家康の作った城に住まわされ…:江戸時代の地理風水を駆使した都市設計【2】


懸造は、山形の米沢城にも、さらには岩出山城にもあったという記録が残っています。伊達氏にとってこの「懸造」は天守に匹敵するほどの重要な建造物であったと思われます。

伊達政宗は徳川家康の作った城に住まわされ…:江戸時代の地理風水を駆使した都市設計【2】
懸造から見た400年後の城下・想像図

伊達政宗は徳川家康の作った城に住まわされ…:江戸時代の地理風水を駆使した都市設計【2】
  仙台城跡から東側を望む

イラストは、仙台城下町百景(画:土橋征史氏)

参照:星の街仙台  *当研究内容は、限りなく史実に基づき推理を重ねたオリジナルの創作になりますので、画像や文章の無断使用、他所での発表をご遠慮願います。


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