しかし、家光は生まれた時に両親より冷遇されてしまい、そんな家光を見かねて手を差し伸べたのは春日局(かすがの-つぼね)でした。
今回は家光が実の母のように慕い、家光政権下で活躍した春日局と家光とのエピソードをご紹介します。
春日局/Wikipediaより
■幼少時代の家光は病気がちだった
家光は慶長9年(1604)に徳川秀忠とお江の元で生まれます。祖父の家康と同じ幼名である竹千代を与えられた家光は徳川家の世継ぎとして扱われていました。

徳川家光/Wikipediaより
しかし、幼少の頃の家光は病弱で言葉がどもってしまう吃音症を持っていました。その上、容姿があまりよくなかったため、両親からは疎まれる始末。
そんな中慶長11年(1606)に家光の弟、徳川忠長(とくがわ-ただなが)が生まれます。
■弟と比較された家光はある行動に…
忠長は家光と違って利発的で容姿端麗で、お江の叔父・織田信長に似た顔立ちだったので、両親の愛は忠長に注がれてしまいました。

徳川忠長/Wikipediaより
そして、その愛は後継者決めにも影響を及ぼし、いずれは忠長が世継ぎになるのではないかと江戸城中で噂されるようになりました。
家光を育てていた乳母の春日局は、このような事態となったことを憂い自殺しようとした家光を諫め、とある行動を起こします。
■大御所家康江戸城へ!
元和2年(1615)、春日局は伊勢参りと称して江戸城を抜け出し、駿府城にいる徳川家康に会いに行きます。その目的は家光の世継ぎ確定を後押してもらうことでした。

徳川家康/Wikipediaより
実際、家康は家光を可愛がっており、何より長幼の序(兄と弟との間の秩序)を重んじていたので、春日局の思いに共感したと考えられます。
そして、春日局の思いを聞き届けた家康は駿府城より江戸城へ赴き、秀忠とお江に家光を世継ぎとすることを確定させました。

お江/Wikipediaより
その後の元和9年(1623)、家康の指示通り家光が将軍宣下を受け、江戸幕府3代将軍として君臨することができました。
家光将軍就任後、春日局は大奥を取り仕切るようになります。
そして大奥の基礎を築き上げた功績によって、松平信綱と柳生宗矩と共に鼎の脚の1人に数えられ、家光を生涯支えました。
■最後に
当時の最大権威であった家康に直訴のような形で会いに行く春日局の大胆さには驚かされてしまいました。
また、誰も逆らえない家康に話せば、ことは丸く収まると考えた春日局から手段を選んでいられない必死さが伝わってきました。
参考:二木謙一『誰かに話したくなる日本史こぼれ話200』
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan