よく「女は家を守るもの」と言いますが、大河ドラマで有名となった井伊直虎(いい なおとら)をはじめ、戦国時代には女性が家督を継承して一国一城を切り盛りする事例が少なくありませんでした。

今回はそんな一人、遠州曳馬の女城主・お田鶴(たづ)の方のエピソードを紹介したいと思います。


■おままごとのような政略結婚

お田鶴の方は天文十九1550年ごろ、三河国宝飯郡上ノ郷(かみのごう。現:愛知県蒲郡市)城主・鵜殿長門守藤太郎長持(うどの ながとのかみ とうたろうながもち)の娘として生まれます。

母は東海地方に勢力を伸ばした守護大名・今川義元(いまがわ よしもと)の妹で、鵜殿家は祖父・鵜殿長将(ながまさ)の代から今川家に仕える譜代の忠臣として、篤い信頼を得ていました。

すくすくと成長したお田鶴は、まだ10歳にもならない幼さで遠江国曳馬(ひくま。現:静岡県浜松市)城主・飯尾豊前守善四郎連龍(いいお ぶぜんのかみ ぜんしろう つらたつ)の元へ嫁ぎます。

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お田鶴の方と飯尾連龍(イメージ)。

飯尾家も鵜殿家に劣らず譜代の忠臣で、曾祖父・飯尾長連(ながつら)より今川家に仕え、連龍で四代目という筋金入り。忠臣の家同士で結びつきを強めて今川家を盛り立てようとする、いわば政略結婚でした。

また、父・長持が弘治三1557年に没し、まだ若い長兄・鵜殿長門守藤太郎長照(ながてる。長門守と藤太郎は世襲)が家督を継承したばかりなので、飯尾家の支援を受ける意図もあったでしょう。

ちなみに、連龍には前妻がいたのですが死別したようで、遺された息子の辰之助(たつのすけ)はお田鶴の方とほぼ同年代。辰之助にしてみれば、継母と言うより姉か妹のような感覚だったことでしょう。


「辰之助殿、これからは妾(わらわ)が継母(かか)にございますよ」

「……えぇ……?」

そんな御飯事(おままごと)のような家族に転機が訪れたのは永禄三1560年5月19日、桶狭間(おけはざま)の戦いでした。

■「海道一の弓取り」義元の死に、連龍の決断は?

主君・今川義元が上洛を目指して尾張国(現:愛知県西部)の小大名・織田信長(おだ のぶなが)を攻めたところ、返り討ちに遭ってしまったこの戦いで、舅である飯尾豊前守善四郎乗連(のりつら。豊前守と善四郎は世襲)が討死してしまいます。

城が欲しくば力で奪え!戦国時代、徳川家康と死闘を繰り広げた女城主・お田鶴の方【上】


討ち取られる義元。英雄の死によって今川家の求心力が喪われた。Wikipediaより。

「父上!」「お義父様!」「祖父上!」

しかし、悲しんでばかりもいられません。駿河・遠江・三河の三国(現:伊豆半島を除く静岡県~愛知県東部)に勢力を伸ばして「海道一の弓取り」と称えられた英雄・今川義元を喪ったことで、今川家は崩壊の危機に直面。

「さぁ、どうする(=誰に臣従する)?」

家督を継承した連龍に考えられる選択肢は以下の通りです。

一、義元の後継者である嫡男・今川氏真(うじざね)
一、北の武田信玄(たけだ しんげん)
一、西の織田信長orその手前の松平元康(まつだいら もとやす。後の徳川家康)

スジからすれば、主君の今川家に忠義を尽くすのが順当ですが、氏真に戦国乱世を生き抜くだけの器量は見込めず、武田や織田(or松平)への鞍替えもやむを得ないところ……もちろん、傾きつつある今川家を全力で支えるという決断もなくはありませんが、

「……織田殿に味方しよう」

城が欲しくば力で奪え!戦国時代、徳川家康と死闘を繰り広げた女城主・お田鶴の方【上】


飯尾氏を取り巻く勢力略図(実際には他勢力も割拠)。連龍は織田信長に未来を賭けた。


決断した連龍は松平元康の仲介によって信長と内通。その頃、お田鶴の方の実家である三河の鵜殿一族も、兄・長照の本家を除いてみんな織田&徳川に内通していました。

ただし、信長は東(三河・遠江方面)より北の美濃国(現:岐阜県南部)を攻略したかったため、ゴタゴタしている今川家勢力はしばし放っておき、連龍も表向きは氏真に臣従を継続します。

そんな内情を抱えながら辛うじて保たれた束の間の平穏ですが、それはあえなく崩れ去ってしまうのでした。

【続く】

※参考文献:
中山和子『三河後風土記正説大全』新人物往来社、1992年
楠戸義昭『井伊直虎と戦国の女城主たち』河出文庫、2016年
御手洗清『家康の愉快な伝説101話』遠州伝説研究協会、1983年

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