現役を離れた家康は鷹狩りや能楽などを楽しみながら余生を過ごしました。家康は何故、隠居後に江戸を離れ、決して近くはない駿府を最期の地として選んだのでしょうか。
徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)wikipediaより
駿府はもともと、戦国時代、家康以前は今川氏や武田氏といった有力な武将たちが入れ替わり支配した地域でした。立地は東海道沿いで、人通りも多いために地理的に重要な地点ではあります。
でもそれだけの理由で駿府を隠居所として選ぶでしょうか。
家康は8歳から13歳までの間、当時全盛を図っていた今川氏の元で、人質として駿府に住んでいたことがあります。もしかしたらそのことも関係しているのかもしれません。
実は、その謎を解く鍵は「鎌倉」にありました。
鎌倉はかつて、源頼朝に一大武士団が築かれた地。家康は幼いころから『吾妻鏡』を愛読し、頼朝を信奉していたと伝えられています。当然、鎌倉のこともよく知っていたと考えられます。
鎌倉は背後を深い山に囲まれ、攻撃をしかけるのが困難です。
実は駿府の地形はこの鎌倉の地とよく似たつくりをしていました。北に赤石山脈が連なり、西に大井川、東に富士川がそれぞれ水をたたえています。また、南には太平洋が広がっています。まさに家康は人質時代の思い出に耽溺するだけではなく、この地の利を知っていたからこそ、この地を隠居場として選んだのだでしょう。

巽櫓 東御門(復元)Wikipediaより
家康が駿府を選んだ理由としては他にも、「大名や使節が拝謁に便利だったから」「避寒の地だったから」など複数挙げられており、それら複合的な要因から、家康が余生を過ごす場所として選ばれたのかもしれません。
参考
- “家康が隠居所に駿府(静岡市)を選んだ理由とは!?” 「静岡・浜松・伊豆情報局」
- “徳川家康はなぜ駿府城で隠居したのか 調べてみた” 「草の実堂~いろいろなモノを調べる雑学メディア~」
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan