徳川家康は何故、隠居後に江戸を離れ、「駿府」を最期の地として選んだのか?

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見事に天下を平定し、200年以上の太平の世の礎を築いた徳川家康。征夷大将軍になった彼はわずか2年で息子の秀忠に将軍職を譲り、自らは「大御所」としてみずから開拓した江戸を離れ、駿府(今の静岡県)に移ります。

現役を離れた家康は鷹狩りや能楽などを楽しみながら余生を過ごしました。家康は何故、隠居後に江戸を離れ、決して近くはない駿府を最期の地として選んだのでしょうか。

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徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)wikipediaより

駿府はもともと、戦国時代、家康以前は今川氏や武田氏といった有力な武将たちが入れ替わり支配した地域でした。立地は東海道沿いで、人通りも多いために地理的に重要な地点ではあります。

でもそれだけの理由で駿府を隠居所として選ぶでしょうか。

家康は8歳から13歳までの間、当時全盛を図っていた今川氏の元で、人質として駿府に住んでいたことがあります。もしかしたらそのことも関係しているのかもしれません。

実は、その謎を解く鍵は「鎌倉」にありました。

鎌倉はかつて、源頼朝に一大武士団が築かれた地。家康は幼いころから『吾妻鏡』を愛読し、頼朝を信奉していたと伝えられています。当然、鎌倉のこともよく知っていたと考えられます。

鎌倉は背後を深い山に囲まれ、攻撃をしかけるのが困難です。また、正面には遠浅の由比ヶ浜に囲まれています。遠浅の砂浜は座礁を恐れた船団を近寄らせず、沖から船から降りた兵士を矢で狙い撃ちし放題です。仮に陸までたどり着いたとしても、海水で濡れた甲冑は重く、先頭には圧倒的に不利になります。このように、鎌倉の地はまさに天然の要塞でした。

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