■前回のあらすじ

戦国時代、肥後(現:熊本県)の国衆「どもり弾正」こと木山正親(きやま まさちか)に嫁いだお京(きょう)の方。

豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)によって九州が平定され、肥後国は佐々内蔵助成政(さっさ くらのすけ なりまさ)が統治することになりましたが、性急な検地の強行によって叛乱(肥後国衆一揆。
天正十五1587年)が勃発します。

しかし、正親とお京の方はその加勢を自重、果たして叛乱は鎮圧されたのでした……。

戦国時代、加藤清正を追い詰めた男装の女武者・お京の方の武勇伝【一】

戦国時代、加藤清正を追い詰めた男装の女武者・お京の方の武勇伝【一】

■恩人を見捨てられず……正親、天正天草合戦に出陣

さて、叛乱を惹き起こした責任をとって佐々成政が更迭され、代わって肥後国を支配したのが、一揆の鎮圧に武功を上げた小西摂津守行長(こにし せっつのかみ ゆきなが)。

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豪勇で知られた小西摂津守行長。成政の教訓は活かせるか(イメージ)。

「さて、今度の『お殿様』は大丈夫じゃろうか……」

さすがに前回の教訓もあって成政ほど性急な施策はなかったものの、何もかも肥後流のままでは統治もやりづらい……という事で、行長は次第に豊臣色を強めていき、正親たちも従わざるを得ません。

そんな中、行長の本拠地となる宇土城(うと。現:熊本県宇土市)の普請に際して、負担が重すぎると協力を拒む者が現れました。

「重い年貢のみならず、城普請まで……いい加減にしろ!」

かくして天正十七1589年、志岐豊前守鎮経(しき ぶぜんのかみ しげつね)が叛乱の兵を興すと、天草五人衆(あまくさごにんしゅう)と呼ばれる天草地域の国人衆も呼応。後世に伝わる「天正天草合戦(てんしょうあまくさがっせん。天草国衆一揆)」の始まりです。

戦国時代、加藤清正を追い詰めた男装の女武者・お京の方の武勇伝【三】


挙兵した天草五人衆(イメージ)。


呼応したのは、大矢野民部少輔種基(おおやの みんぶしょうゆう たねもと)、上津浦種直(こうつうら たねなお)、栖本下野守八郎親高(すもと しもつけのかみ はちろうちかたか)……そして天草伊豆守太郎左衛門久種(あまくさ いずのかみ たろうざゑもんひさたね)と天草種元。

かつて島津氏に追われて以来、ずっと世話になって来た種元を見捨てる訳にはいかない……事ここに至って、正親は覚悟を決めました。

「それでは、志岐殿の加勢に参る。そなたたちも、ゆめゆめ油断なきように」

小西の背後には豊臣の大軍が控えている……生還を期せず、せめて肥後国衆の意地を示すべく、正親はお京の方や息子たちと別れの水盃を交わします(嫡男・傳九郎は従軍)。

「お留守は私どもが務めますゆえ、お心置きなくご奉公下さいませ……」

これが今生の別れ。武士の妻として、平生より覚悟してきたつもりであっても、今度ばかりは勝ち目は元より、生きて帰れる見込みもありません。

(※現代人なら「逃げ帰ればいい」と考えるかも知れませんが、それでたとえ命は助かっても、卑怯未練の振る舞いは前科のように一生涯ついて回り、武士としては死んだも同じことでした)

「……どうか、ご武運を」

「うむ。必ずや、第一等の武功を立てて見せよう」

戦国時代、加藤清正を追い詰めた男装の女武者・お京の方の武勇伝【三】


決死の覚悟で出陣する正親(イメージ)。

死ぬも生きるも天が決める。自分に出来るのは、ただ戦うのみ。見送る家族に振り返ることなく、正親は五百の兵を率いて出陣していきました。

■大将同士の一騎打ち!正親、加藤清正を組み伏せる

「……まさか、あれほどの大軍とは……」

さて、志岐豊前守の援軍に駆けつけた正親ですが、迫りくる小西行長の軍勢を前に恐れをなした豊前守は、叛乱の首謀者でありながら早々に撤退してしまいました。


(その程度の覚悟なら、最初から兵など挙げねばよいものを……)

大いに落胆した正親でしたが、いくら総大将が逃げ出したからと言って、自分までそれに追従してしまったら、上方の連中に「肥後にはろくな武士がおらぬ」と物笑いの種とされてしまうでしょう。

「かくなる上は、我らだけでも斬り込んで、肥後国衆の意地を見せてくりょうぞ!」

古来「夜討ち朝駆け」と言う通り、正親の軍勢は早朝、小西行長の援軍に来ていた秀吉子飼いの猛将・加藤主計頭清正(かとう かずえのかみ きよまさ)の陣へ奇襲をかけます。

「そこにおわすは名のある大将とお見受けした!我が名は木山弾正正親!槍合わせ願おう!」

「おぅ、肥後国に武勇名高き弾正殿か!相手にとって不足はない!我こそは加藤主計頭清正、いざ参れ!」

戦国時代、加藤清正を追い詰めた男装の女武者・お京の方の武勇伝【三】


「この野郎!」「何くそ、負けるか!」清正に組討ちを挑む正親(イメージ)。

互いに強敵と知って「オラ、わくわくすっぞ!」とばかり喜び勇んで挑みかかった両雄。数十合にも及ぶ槍合わせの末、地面に転がってくんずほぐれつの大乱闘。

「すわっ!」

「っしゃあ!」

実力こそ伯仲ながら、武運は正親に与(くみ)したようで、態勢を一瞬崩した清正を組み伏せて、その首級を掻っ切ろうと脇差に手をかけた、その時でした。

【続く】

※参考文献:
国史研究会 編『国史叢書. 將軍記二 續撰清正記』国史研究会、1916年
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』吉川弘文館、2005年
松田唯雄『天草温故』日本談義社、1956年

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