家康の嫡男は「徳川信康」といい、わずか21歳で死亡している。寿命を全うしていれば、徳川将軍の座に継いていたかもしれなかった信康。
今回は徳川家康の長男・徳川信康の生涯をご紹介する。
■出生から元服まで
信康は1559年に徳川家康(当時は松平元康)の長男として今川領・駿府で生まれた。母親は家康の正室で、今川家に仕える有力家臣・関口親永の娘「築山殿(つきやまどの)」。
1600年に起こった桶狭間の戦いによって、今川家当主・今川義元が尾張の織田信長に討ち取られると、父である家康は信長と清洲同盟を結び今川家と敵対する。駿府に置き去りにされた信康と築山殿は結果的に人質となった。
その後、今川方との人質交換によって岡崎城へ帰還。1567年に織田家との繋がりを強めるために、信長の娘・「徳姫」と結婚。共に9歳という若年結婚であった。
元服後は信長より「信」の字を与えられ「信康」と名乗る。1570年、岡崎城主となる。
岡崎城天守(Wikipediaより)
■初陣から切腹へ
松平信康(ウィキペディアより)
1573年、14歳で初陣。信康は武勇に長けていたようで、1975年の長篠の戦いを筆頭に、77年、78年と続いた武田勢との戦いで多くの武功を上げている。
家康も信康の活躍には一目置いていたといわれており、徳川家次代当主としての期待が伺える。岡崎城主として徳川家の発展に尽力し、順調に功績を残していた信康だったが、突如としてその人生に終止符が打たれる。
1579年、信康は父・家康の命によって岡崎城を追われ、城を転々とさせられた挙句に遠江の二俣城にて切腹。享年21。また、信康切腹の直前には、生母である築山殿も殺害されており、親子揃って家康に粛清される事態となった。
■自刃事件の謎
信康の切腹の原因について、明確な理由は現在でもわかっていない。その死に関しては様々な説や憶測が流布されている。
事項では一般的に唱えられている通説から、信憑性の高い分析など、信康の死を多角的に分析した説をご紹介する。
【後編へ続く】
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