人望に厚く、能力・学識に優れた僧として注目を集め、武田信玄から厚い信頼を寄せられていました。
そして、織田軍の焼き討ちに屈しなかった快川紹喜。ここまでのお話は【その1】もぜひご覧ください。
戦国時代、いかなる権力にも屈せず火炎の中に没した気骨の禅僧・快川紹喜の生涯 【その1】
■快川紹喜の名声を聞いた信玄により恵林寺へ
快川紹喜に厚い信任をよせた武田信玄(写真:wikipedia)
快川の出自と武田信玄との出会い 快川紹喜は、12歳で仏道に入門。当時から人望に厚く、能力・学識に優れた将来有望な若者として注目を集めていました。
35歳のとき、師である仁岫宗寿(妙心寺第27世)から「快川」の道号(注1)を与えられ一寺の主となったのです。
※注1:僧侶が付ける号。俗世でいう苗字。
1551(天文20)年に仁岫亡き後、美濃国大桑城下の南泉寺の住持となり、快川の活躍は顕著となっていきます。
1553(天文22)年、かねてから快川の名声を耳にしていた甲斐国主・武田信玄から恵林寺の住持として招かれ美濃国を離れました。
しかし4年後、美濃崇福寺の住持が途絶えたため、信玄の許しを得て美濃に戻り、崇福寺住持に就いたのです。
■「永禄別伝の乱」でみせた卓越した手腕

斎藤道三の長男、斎藤義龍(写真wikipedia)
当時、美濃国主は、斎藤道三から義龍に移っていました。
一色姓を名乗るため禅宗へ宗旨変えを行う必要があった義龍は、妙心寺の長老に相談し、別伝宗亀という僧を紹介されます。
別伝は義龍にとり入り、伝灯寺が美濃国の妙心寺派本山として「諸寺・諸僧の籍および妙心寺への手続きなどを一手に行うこと」を布告させます。
快川は、当初別伝の動きを傍観していましたが、この布告を知ると、尾張国の瑞泉寺へ退去します。
快川にならい妙心寺派の僧たちのほとんどが国外退去 快川の動きをみた美濃妙心寺派の僧たちのほとんどが、同じく国外退去を敢行。「永禄別伝の乱」と呼ばれる、一大宗教紛争に発展してしまったのです。
1561(永禄4)年、快川らの訴えを聞いた本山の妙心寺から別伝の動きを不法と見なし、除籍するという回答が発せられました。
しかし、義龍が別伝を庇い、朝廷と将軍家から「伝灯寺は天皇の勅願寺、紫衣勅許の寺として京都南禅寺と同格になす」という綸旨を引き出します。
本山である妙心寺もその立場をないがしろにされてしまったのです。
しかし、この直後義龍は33歳の若さで急死。後ろ盾を失った別伝は、美濃国から逃走しました。
■斎藤義龍に真っ向から対峙した快川の気骨

快川紹喜の像が安置されている恵林寺の開山堂(写真:photo-ac)
「永禄別伝の乱」の最中、快川は、義龍に一歩も引くことなく渡り合っています。
国外退去した快川への帰国の命に対し、
「美濃の太守といえども義龍は一国の主にすぎない。
その広さと比べれば、一国など狭すぎて比較にならない。それ故に私たちは帰らない」
と、凛とした返書を送ったのです。
正義正論のためには「一国の太守など、なにするものぞ!」という快川の気骨がよく表れている名言として知られています。
この「永禄別伝の乱」で快川の名声は響き渡り、1561(永禄4)年、本山妙心寺に47世住持として就任、さらに恵林寺へ再住することとなったのです。
■斎藤龍興を救うため、再び信玄のもとに

斎藤龍興(写真:wikipedia)
信玄は、快川を再び恵林寺に迎えるにあたり、大幅な寺領を加増、自身の位牌を安置するという最大限の礼を払いました。
快川が信玄のもとに再び赴いたのは、義龍亡き後の逼迫した美濃の情勢も反映していたようです。
父道三を滅ぼし美濃を掌握した義龍は、優秀な戦国大名で存命の間、信長の美濃侵攻はことごとく失敗しました。
しかし、義龍の跡を継いだ龍興は、まだ若く、信長の相次ぐ侵攻にさらされることとなります。
快川は、龍興を救うため武田氏との軍事同盟が必要と、信玄の要望に応え恵林寺再住を快諾。
1565(永禄8)年前後には信玄との同盟関係が成立したのです。
■信長に士気の緩みをつかれ龍興は降伏

美濃方の拠点であった犬山城(写真:wikipedia)
こうした快川の努力も時流には逆らえませんでした。
その動きを見つつ、信長は着々と美濃侵攻を進めます。美濃攻めの最前線として小牧山城に居城を移すと、美濃方の重要拠点犬山城を陥落。
あわせて調略も進め、1567(永禄10)年、龍興の宿老である美濃三人衆を内応させます。そのうえで、稲葉山城を囲み城下町に火を放ったのです。
万策尽きた龍興はついに降伏。木曽川を船で下り、伊勢長嶋へ落ち延びていきました。
【その3】に続く……
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