戦国時代、近江国(現:滋賀県)で百姓の子として生まれた久兵衛(きゅうべゑ)こと田中宗政(たなか むねまさ。後の田中吉政)は、地元の領主・宮部継潤(みやべ けいじゅん)に仕えます。
百姓時代の苦労を知っているため、武士になっても威張り散らすことなく民百姓の声をよく聞いて施政に取り組んだことから、主君や同僚、民衆から神様に至るまで幅広く愛されたようです。
主君の娘婿となって、より一層の奉公に励んだ久兵衛ですが、彼らの元にも戦国乱世の風雲が容赦なく迫るのでした……。
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百姓から一国の大名に!民衆や神様に愛された戦国武将・田中吉政の立身出世を追う【上】
■叔父との決別……浅井家を見限り、秀吉に寝返る
時は元亀元1570年、近江国の戦国大名・浅井長政(あざい ながまさ)は美濃・尾張両国(現:岐阜県南部&愛知県西部)に勢力を伸ばしていた織田信長(おだ のぶなが)との同盟を破棄して宣戦布告。
浅井攻略のため、調略に奔走した木下藤吉郎秀吉。Wikipediaより。
久兵衛は主君に従って長政に味方し、信長の部将・木下藤吉郎秀吉(きのした とうきちろうひでよし。後の羽柴秀吉)と対峙することになりました。
しかし金ヶ崎での敗戦(同年4月25日)以来、織田方は慎重になっていて力押しはせず、また久兵衛らも浅井家の重要拠点である宮部城を堅く守り続けたため、睨み合ったままで約2年半の歳月を費やします。
「久兵衛よ……わしは木下殿にお味方する!」
元亀三1572年10月、秀吉の調略により宮部継潤が織田家へ寝返った理由はハッキリしませんが、主君である浅井長政を見限るキッカケでもあったのか、あるいは持ちかけられた報酬がよほど魅力的だったのかも知れません。
いずれにしても重要な防衛拠点を失った浅井長政は劣勢に転じることとなり、久兵衛は宮部継潤と共に、織田家への忠誠を示すため、国友城(現:滋賀県長浜市)へと進攻します。
「おのれ宮部……浅井家を裏切った上は、最早うぬなぞ主に非ず!」
国友城を守るのは国友与左衛門(くにとも よざゑもん)、久兵衛にとっては叔父(母・竹の弟)であり、また義理の舅(※)にも当たります。
(※)久兵衛は宮部継潤の娘婿ですが、彼女は与左衛門の娘で、宮部の養女になっていました。
「久兵衛よ……今からでも遅うはない、そなただけでも考え直せ!」
「すまぬが叔父上、我らは我らの道を行く!」
「されば是非もなし……参れ!」
「おう!」

久兵衛らと決別し、果敢に抗戦する与左衛門たち(イメージ)。Wikipedia(撮影:サフィル氏)より。
烈しい攻防戦の中で宮部継潤は国友一族自慢の鉄炮(※国友村は当時、全国有数の鉄炮産地でした)によって負傷、多くの犠牲を出したもののどうにか攻略。与左衛門は逐電したのか、以降の行方は知れません。
「……叔父上、どうかご無事で……」
その後も一年弱にわたって戦闘が繰り広げられ、翌天正1573元年9月1日に浅井家は滅亡。長政は切腹して果てたのでした。
■五千石の大出世、そして義父との別れ
かくして久兵衛は宮部継潤と共に秀吉の与力として仕えることとなり、天正五1577年には中国地方の覇者・毛利(もうり)氏の攻略に従軍。秀吉の弟・羽柴秀長(はしば ひでなが。この時点では長秀)を補佐して山陰方面の敵に当たり、秀長が留守の時は代理で指揮を任されるほど篤く信頼されました。
数々の武勲によって宮部継潤は天正八1580年、但馬国豊岡城(現:兵庫県豊岡市)を与えられ、2万石の大名となります。
「義父上、此度はまこと祝着至極に存じまする」
「これも偏(ひとえ)に久兵衛の助けあればこそ……これからも、よろしく頼むぞ」
「ははぁ」
そんな天正十1582年6月2日、秀吉の主君である信長が京都で重臣の明智光秀(あけち みつひで)の謀叛に遭って横死してしまいます。

明智光秀の軍勢に滅ぼされた信長たち。
後世に言う「本能寺(ほんのうじ)の変」を知った秀吉は、それまで戦っていた毛利氏と急いで和睦し、仇討ちのため京都へとんぼ返りを始めました。
「久兵衛……急ぎ筑前(秀吉)様の元へ馳せ参ずよう、早馬が参ったぞ!」
これがいわゆる「中国大返し」ですが、久兵衛は宮部継潤と別行動で秀吉に従い、猛スピードで京都を目指します。
「わしは留守番か……久兵衛よ、わしの分まで武功を上げるんじゃ!」
「はっ。義父上が背中を守って下さればこそ、後顧の憂いなく戦えまする!」
久兵衛は押取り刀で秀吉の本隊に合流、山崎の地(現:京都府乙訓郡大山崎町)で明智の軍勢を撃破。この「山崎合戦」で大いに武功を立てた久兵衛は、恩賞として五千石の所領を賜りました。
「……ところで久兵衛、モノは相談なのじゃが……」
久兵衛は秀吉から直々に声をかけられ、秀吉の甥である羽柴秀次(ひでつぐ)の補佐役に抜擢されます。

久兵衛とはかつて義兄弟(宮部継潤の養子)であった秀次。Wikipediaより。
秀次は以前、秀吉が浅井家を攻略する際に宮部継潤の養子(実質的な人質)に出されていたことがあり、久兵衛とも親しく交わっていたことがあったのです。
「有難き仕合せにございまする!」
しかし、これによって久兵衛はおよそ二十年の永きにわたり奉公してきた主君であり、義父でもある宮部継潤との別れを余儀なくされました。
「……義父上」
「構わぬ。
「ははぁ……」
かくして久兵衛は秀次の家老として、その政治的手腕をいかんなく発揮することになります。
【続く】
※参考文献:
市立長浜城歴史博物館ら『秀吉を支えた武将 田中吉政―近畿・東海と九州をつなぐ戦国史』市立長浜城歴史博物館、2005年10月
宇野秀史ら『田中吉政 天下人を支えた田中一族』梓書院、2018年1月
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