京都への修学旅行や観光旅行の行く先として、必ずベスト3に入るといっても過言ではないのが「金閣寺」(正式名:鹿苑寺)と「銀閣寺」(正式名:東山慈照寺)。
両方とも世界遺産に登録されている有名な名所です。
そして、金閣・銀閣と続いて、実は「銅閣寺」も京都の祇園にあるのです。 知る人ぞ知る「銅閣寺」をご紹介しましょう!
■銅閣寺の正式名は大雲院。信長の子・信忠の菩提を弔う寺
織田信忠。法名は「大雲院殿三品羽林仙巌大居士」(写真:wikipedia)
京都に何回も訪れたことがある人でも、「銅閣寺」の存在を知らない人は、意外と多いもの。実は、観光客のほとんどが訪れる祇園にあるのです。
銅閣寺の正式名は、「大雲院(だいうんいん)」。高台寺の「ねねの道」から円山公園に行く途中にあります。

ねねの道。奥の突き当りが大雲院(写真:TERUAKI.T)

ねねの道~大雲院(illust:ERI)
大雲院は、本能寺の変から5年後の天正15年(1587年)、織田信長とその子・信忠の菩提を弔うため、父子の知遇を得ていた貞安上人が、二条城御所跡(烏丸御池)に創建されました。
大雲院という名前は、信忠の法名から名付けられたのです。
また、境内の墓地には、あの天下の大泥棒・石川五右衛門の墓もありました。
しかしながら同年、豊臣秀吉の命により大雲院は四条寺町南に移転、天正18年(1590年)には寺町四条に移転しました。

秀吉の移転命令による大雲院跡(四条寺町南)(写真:wikipedia)
■時を経て移転した先は帝国ホテル創始者の別荘地!
四条に移転後、天明の大火により焼失した大雲院ですが、明治初期には復興。時は流れ、昭和48年(1973年)には、現在の祇園・東山界隈の地に移転。阿弥陀像が設置されました。
実は、その地は現在の大成建設や帝国ホテルの創始者で、日本の実業家・大倉喜八郎氏の別荘地だったのです。
祇園祭の鉾(ほこ)がモチーフにしたデザイン

大倉喜八郎1908年頃(写真:wikipedia)
大倉喜八郎氏は、祇園・東山の土地に老後の保養地として別邸・真葛荘を建てていました。
そして、「金閣・銀閣についで、銅閣を作ろう」と考えて、敷地内に「銅閣」を建てたそう。
銅閣は、平安神宮などを設計した建築家・伊東忠太氏。大倉氏の要望により、祇園祭の山鉾をモチーフにしたデザインにしたため、その形から「祇園閣」と呼ばれました。屋根は、銅板葺きとなっています。
その後、この真葛荘に大雲院が移転、祇園閣は大雲院の所有となり「大雲院=銅閣寺」として知られることになったのです。

祇園祭の鉾(模型)(写真:photo-ac)
■銅閣寺(大雲院)には織田信長親子の墓も

仏教遺跡・莫高窟(写真:wikipedia)
祇園閣は国の登録有形文化財なのですが、その内部の通路や階段壁面位は世界遺産でもある、中国の「敦煌莫高窟」の壁画が模写されています。
建築した伊東忠太氏は、実は「妖怪好き」でも知られ、祇園閣内部のちょっとした部分に鬼や妖怪のようなモチーフが登場しているとか。
また入り口の「祇園閣」の文字は、公家で政治家であった西園寺公望の手によるものだそうです。

伊東忠太のデザインによる祇園閣(写真:wikipedia)
祇園閣は高さ36メートルで、最上階からは京都市街が一望できます。もちろん、境内の墓所には織田信長親子の墓や石川五右衛門の墓も。
「大雲院=銅閣寺」は見所が多く、文化財も多数所持していていますが、通常は非公開。けれども、ときどき「特別公開」する期間があります。ぜひ京都の特別拝観キャンペーンをチェックしてみてくださいね。

雪景色の祇園閣(銅閣時)も美しい(写真:photp-ac)
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