さて、そんな長宗我部元親について調べてみると、その家臣に香宗我部親泰(こうそかべ ちかやす)という者がおり、元親の実弟だそうですが、苗字の一文字違いが何だかとても気になるところ。
そこで今回は、長宗我部氏と香宗我部氏の違いと苗字の成り立ちについて、紹介したいと思います。
■土佐に並び立った、二つの「宗我部」氏
まずは長宗我部氏から。そのルーツは中国大陸から渡って来た秦(はた)氏、すなわち秦(しん)王朝の始皇帝(しこうてい。紀元前3世紀)の末裔と自称しています。
長宗我部氏の祖先?始皇帝。
その一人である秦河勝(はたの かわかつ)が用明天皇二587年「丁未(ていび)の乱」で物部守屋(もののべの もりや)討伐に武功を立てたため、信濃国(現:長野県)に領地を与えられ子の秦広国(ひろくに)を派遣しました。
それから歳月は流れて平安時代末期、さらに子孫の秦能俊(よしとし)は保元元1156年「保元(ほうげん)の乱」に敗れ、遠征先の京都から地元には帰らず、瀬戸内海を渡って土佐国長岡郡宗我部郷(現:高知県南国市)まで逃げ込みます。
土佐国は東西と北の三方を険しい山々に囲まれ、南は荒い海が広がる「陸の孤島」で、古くから流刑地とされるほどの厳しい土地でしたから、ここまで来ればたぶん大丈夫です。
「……とは言え、念には念を入れて身元がバレないよう、ここの地名を苗字に名乗って『昔からここにいました。保元の乱なんて知りません』って顔をしておこう……」
そこで「宗我部(すがべ)能俊」と名乗ったのですが、しばらくすると、困ったことが起こりました。
「おい、紛らわしいから宗我部を名乗るな!」
抗議してきたのは中原秋通(なかはらの あきみち)。養父・中原秋家(あきいえ)から所領の土佐国香美郡宗我部郷(現:高知県香美市)を譲られたため、新たに家を興すべく「宗我部」氏を名乗ったのでした。

甲斐源氏を代表する武田信義(秋通の祖父)。
※この秋通は甲斐源氏の流れを汲み、実父・一条忠頼(いちじょう ただより)が源頼朝(みなもとの よりとも)に暗殺されたため、父の家臣であった秋家の養子となっていました。
「うるせえ!こっちが先に名乗ったんだぞ!真似するな!」
どっちが先に「宗我部」を名乗ったのかについては諸説ある(例えば、能俊がこっちへ来たのは承久三1221年「承久の乱」後など)ようですが、ともあれこのままでは紛らわしいことこの上ありません。
結局お互い「宗我部」は譲らなかったようで、仕方なくそれぞれの「郡名」から一文字とって頭につけることにします。
能俊は長岡郡から「長」の字をつけた長宗我部(ちょうそがべ)、秋通は香美郡から「香」の字をつけた香宗我部(こうそかべ)と名乗るようになったのでした。
ちなみに、長宗我部は現在「ちょうそかべ」と読むことが多いですが、戦国時代の文献を調べると「チヤウスカメ(興福寺『多聞院日記』)」「Chosugami(ちょうすがみ。ルイス・フロイス『日本史』)」と書かれており、これらを合わせると「ちょうすがめ」と呼ばれていた可能性が考えられます。
一方の香宗我部氏も「こうすがめ」と名乗っていたのか、あるいは文字が似ているので差別化するために「こうそかべ」「ちょうすがめ」と名乗ったのかも知れません。

弟・親泰の助けによって四国統一に飛躍した長宗我部元親。
かくして並び立っていた両家ですが、戦国時代に入ると長宗我部元親の弟・親泰が香宗我部家の養子となったことで長宗我部氏の傘下に入り、元親の片腕として大いに活躍することになります。
■まとめ
【長宗我部氏】
ルーツ:秦氏(自称)
土着時期:平安末期~鎌倉初期
苗字の由来:「長」岡郡の「宗我部」郷を治めていたから
【香宗我部氏】
ルーツ:甲斐源氏
土着時期:平安末期
苗字の由来:「香」美郡の「宗我部」郷を治めていたから

長宗我部の「七つ酢漿草(かたばみ)」と、香宗我部の「四つ割菱(武田菱)」。
どっちも珍しい苗字なので、何かしら由来があると思っていたら、やっぱりでした。
※参考文献:
山本大『土佐長宗我部氏』新人物往来社、1974年1月
津野倫明『長宗我部氏の研究』吉川弘文館、2012年4月
太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年1月
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