豊臣秀吉肖像、一部(高台寺所蔵、Wikipediaより)
■織田信長の遺体の代わりに何を入れた?
信長の葬儀は、だいぶ下って本能寺の変から四か月後。遺体は寺とともに焼け切ってしまい、骨すらも判別できませんでした。
そこで秀吉は香木(沈香)で二体の木造を彫り、一体を棺に埋めさせたとか。
葬儀を行ったのは京都の臨済宗大徳寺派の大本山、京都大徳寺。大徳寺内には菩提所が創建され、遺体の代わり焼いた木像の灰が埋められたそうです。
■朝鮮行ったら虎捕ってきて
秀吉は無類の肉好きだったそうです。精力がつくというのがその理由だったそう。
「加藤清正の虎退治」は槍一本で虎に立ち向かう清正が描かれ誇張されておりますが、秀吉が虎の肉を清正に所望したことから、この逸話が生まれたようです。
虎の肉は滋養強壮に優れ回春作用もあるとされており、日本ではなかなか手に入らないがため、清正がその肉を朝鮮出兵のおりに手に入れたとのこと。退治というより、狩りですね。
■小田原の北条攻めで大茶会
天下統一のため、北条の大包囲網を敷いた秀吉。膠着状態のなか「一夜城」と呼ばれる石垣山城を築城し、北条軍を戦意喪失させたといいます。
更にその城に千利休も呼んでたびたび大茶会を開き、余裕をみせつけたとか。また、小田原城下には遊女が集まり芝居小屋が立ち並び、大いに賑わったといいます。北条側も臍を嚙む思いだったでしょうね。
■秀吉vs.光秀、光秀の狼狽っぷりとは
信長が本能寺で討たれたあとの、「中国大返し」と呼ばれる秀吉の速攻。二人の戦いは「山崎の合戦」と呼ばれ、そこで光秀は敗れてしまいます。
光秀は京都から大坂へ出発する際に、京都の庶民から戦勝祈願で「ちまき」を渡されますが、そのとき皮ごと食べようとしてしまい、狼狽している様子をさらけ出してしまいます。
その様子をみた人々は「あれでは戦に負けるに違いない」と思ったそうな。
■血を好まない秀吉の戦法とは?
秀吉は自分の体格のこともあってか、真向正面、血を血で洗う戦のスタイルは好まなかったといいます。
彼は兵糧攻めの一種、「干殺し戦法」といって、城を包囲した後に飲み水の補給路を断ち敵が降参してくるのを待ちました。そのアレンジとして、毛利戦では城下町の米という米を倍の値段で買い上げ、敵方に食料が回らないようにしたとか。
味方も無駄に傷つかないし、一石二鳥ですね。
■信長の娘に振られた秀吉
無類の女好きの秀吉。それも名門に弱い。信長の妹「お市の方」にご執心だったのは有名で、市の娘の三姉妹のうち茶々を側室に迎えたのもお市の方が忘れられなかったからと言われています。そんな秀吉、実は信長の娘「冬姫」も手に入れようとしたことも。彼女は12歳で蒲生氏郷に嫁ぎますが、氏郷は40歳で死去。
秀吉は未亡人となった彼女を熱心に口説きますが、冬姫は頑として受け付けず、剃髪して尼になってしまいました。それを恨んでか、蒲生家の石高を会津92万石から宇都宮18万石に減じています。
いかがだったでしょうか。普段あまり知られていない秀吉のエピソードをご紹介しました。
参考書籍:戦国武将検定 (廣済堂ペーパーバックス)
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