古来「清濁併せ吞む」とはよく言ったもので、世の中キレイゴトや正論ばかりでは上手く渡っていけないものです。

しかし、世の中そんなに器用な人間ばかりではなく、むしろ不器用で損ばかりしている人の方が多いのではないでしょうか。


今回紹介する戦国武将・曲淵勝左衛門吉景(まがりぶち しょうざゑもんよしかげ)もそんな一人で、その苗字とは違い?まっすぐ過ぎてトラブルばかり起こしていたようです。

皆さんはここまで極端ではないと思いますが、「戦国時代にも、こんなヤツがいたんだな」と思いを寄せてみるのも一興でしょう。

■槍一本で武功を上げて、草履取りから出世するも……

曲淵吉景は永正十五1518年、甲斐国中巨摩郡曲淵(現:山梨県昭和町)の生まれで幼名は鳥若(とりわか)。若い頃から板垣信方(いたがき のぶかた)に草履取りとして仕え、元服して勝左衛門(※)と名乗りました。

(※)ほか庄左衛門、荘左衛門などと書かれていることから、読みが「しょうざゑもん」と判ります。

なんと生涯で敗訴73回!それでもめげない戦国武将・曲淵吉景の...の画像はこちら >>


晴信(信玄公)に傍近く仕える信方(信形)。

信方は甲斐国の戦国大名・武田信虎(たけだ のぶとら)の家老で、信虎の嫡男である武田晴信(はるのぶ。後の信玄公)の傅役(守役)を務めています。

この頃、甲斐国を統一した信虎はしきりに信濃国(現:長野県)へ侵攻しており、勝左衛門も信方に従って各地を転戦しました。

同輩の広瀬郷左衛門(ひろせ ごうざゑもん。景房)や三科伝右衛門(みしな でんゑもん。形幸)と共に先鋒を務めて武功を競い、足軽大将として板垣家中の筆頭に昇りつめていきます。


天文十1541年に晴信が父・信虎を追放すると、信方は両職(武田家の筆頭家老)となっていますが、勝左衛門は主君の威光を嵩に着るようなこともなく、ひたすら忠義に励んだそうです。

しかし、曲がったことの許せない性格だったようで、

「……白黒はっきりつけようじゃねぇか!」

世の不条理に片っ端から立ち向かおうと、起こした訴訟は『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』に記録されている限りで75回。どんなに正義の動機であろうと、正直トラブルメーカー以外の何物でもありません。

「……またお前か……」

訴訟を取り裁く奉行たちも、いい加減うんざりしたでしょうが、凄まじいのはそれだけではありません。

75回にも及ぶ訴訟の内、勝訴できたのはたったの1回、ほか和解した1回を除いて、残り73回はすべて敗訴。ほとんど負けっ放しです。

「あのなぁ勝左、世の中ってのは正論だけでは通らんのじゃよ……」

「やかましい!間違っておるものは間違っておるのじゃ!」

73回もの敗訴にもめげることなく、どこまでも正義を求めて暴走した勝左衛門でしたが、そのタフなメンタルには驚かされるばかりです。

なんと生涯で敗訴73回!それでもめげない戦国武将・曲淵吉景のまっすぐで不器用な人生


武功を競う勝左衛門たち(イメージ)。

そんな調子で、どこまでも真っ直ぐに忠義を尽くした勝左衛門が板垣家を離れたのは天文十三1544年。晴信が信州佐久の小田井城を攻略した際、城主の小田井又六郎(おたい またろくろう)、小田井一郎左衛門(いちろうざゑもん)兄弟を討ち果たす武功により、晴信の直臣(※)に取り立てられたのでした。

(※)じきしん。大名に直接仕える家臣。
家臣の家臣は「陪臣(ばいしん)」と言います。

「御屋形様……この偏屈者を、草履取りよりお取立て下さった御恩は、決して忘れませぬ」

「何を大袈裟な……これまでもこれからも、武田家のために奉公するのは変わらぬではないか」

「……御意」

■「お父上から受けた御恩を……」落ちぶれた弥次郎に最期まで仕える

かくして一度は板垣家を離れた勝左衛門が再び戻って来たのは、十年以上の歳月が流れた弘治三1557年ごろ。

天文十七1548年「上田原の合戦」で信方が討死してしまい、その嫡男である板垣弥次郎信憲(やじろうのぶのり)が家督を継承します。

しかし、この弥次郎は父と違って将器に乏しく、また世襲した役目も怠ったことにより、とうとう追放されてしまいました。

甲府の長禅寺(現:山梨県甲府市)に押し込められ、板垣家中の誰もが見捨てた弥次郎を、勝左衛門だけは見捨てなかったのです。

なんと生涯で敗訴73回!それでもめげない戦国武将・曲淵吉景のまっすぐで不器用な人生


弥次郎と勝左衛門が共に寝起きした長禅寺。Wikipedia(撮影:さかおり氏)より。

晴信に暇を乞うて長禅寺に駆けつけ、先代・信方より受けた恩義を返すためとして、弥次郎と共に寝起きし、懸命に仕えたと言います。

「お父上から受けた御恩を返すのは、今この時を措いてなし……この勝左衛門、必ずや若君を盛り立てましょうぞ!」

「……忝(かたじけな)い……」

これで弥次郎が心を入れ替え、再び武田家の柱石として返り咲ければハッピーエンドのですが、残念ながら弥次郎は、予ての不行跡で怨みを買っていた本郷八郎左衛門(ほんごう はちろうざゑもん)によって殺されてしまいます。

「おのれ……これは、御屋形様(晴信)が命じたに違いない!」

主君の仇!とばかりに晴信へ詰め寄った勝左衛門でしたが、誤解である(反省次第では赦すつもりでいた)ことが解ると素直に非礼を詫び、また晴信も「(どんなにダメな主君でも)最期まで忠節を尽くした」ことを評価し、赦したという事です。

なんと生涯で敗訴73回!それでもめげない戦国武将・曲淵吉景のまっすぐで不器用な人生


山縣昌景(三郎兵衛)。武田の赤備を率いて、その勇名を諸国に轟かせた。


以降は武田家きっての猛将・山形昌景(やまがた まさかげ)に仕え、名前から「景」の一文字を拝領して吉景と改名。武田家の精鋭部隊である「赤備(あかぞなえ)」の一員として、かつての同輩である郷左衛門や伝右衛門と共に暴れ回ったのでした。

■エピローグ

勝左衛門は武田家滅亡(天正十1582年)まで戦い抜いて武功を重ね、その後は武田旧臣を取り込んだ徳川家康(とくがわ いえやす)に仕えて小牧・長久手の合戦(天正十二1584年)や小田原征伐(天正十八1590年)に従軍。

長久手の武功によって家康から兼光(備前長船。刀)を拝領したとも言われ、苗字をとった「曲淵兼光(まがりぶちかねみつ)」として現存しているそうです。

刀と言えば、かつて勝左衛門が恩賞として晴信から脇差を賜ったところ、何が気に入らなかったのか「こんなもん要るか!」と投げ返したことがあったそうです。よく首がつながっていたものですが、晴信も「この頑固者だから、仕方ない」と苦笑していたのかも知れません。

そんな勝左衛門は文禄二1594年11月23日、77歳の生涯に幕を下ろしたのでした。どこまでもまっすぐ頑固で偏屈で……だけど、一度主君と思い決めたら最期まで忠実に全力で奉仕する姿は、まるで甲斐犬(かいけん。山梨県の在来犬種)を思わせます。

あまりにも不器用すぎて衝突ばかり繰り返す勝左衛門でしたが、それでもどこか憎めず、みんなから一目置かれていたのは、その無私無欲ゆえでしょう。

ちょっと極端すぎるきらいはあるものの、こういうバカ正直な人間の情熱は、とかくニヒリズムに陥りがちな現代社会の私たちに、何かを訴えかけてくるようです。


※参考文献:
『日本人名大辞典』講談社、2001年12月
柴辻俊六 編『武田信玄大事典』新人物往来社、2000年10月

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

編集部おすすめ