しかし、だからと言って愛情など全くなかったかと言えばそんな事もなく、古来「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」と言う通り、いざ一緒となってみれば、よい夫婦として終生を共にする例も少なくありません。
そこで今回は、武田家に嫁ぎ、その滅亡に殉じた悲劇のヒロイン「北条(ほうじょう)夫人」の生涯を辿ってみたいと思います。
■長篠の合戦に敗れ、斜陽の武田家に嫁ぐ
北条夫人は永禄七1564年、相模国(現:神奈川県)から坂東一円に勢力を広げていた北条氏康(ほうじょう うじやす)の六女として誕生。本名は不明、母親は松田(まつだ)殿と言われます。
勝頼に嫁いだ北条夫人。高野山持明院蔵(Wikipediaより)
彼女が甲斐国(現:山梨県)の戦国大名・武田勝頼(たけだ かつより)に嫁いだのは天正五1577年1月22日、それまで争ったり同盟したりを繰り返していた北条・武田両家の仲立ちとなりました。
少し時を遡りますが、勝頼は元亀四1573年に亡くなった偉大なる父・武田信玄(しんげん)公の覇業を継いだものの、家老たちとの間に確執を抱えており、何とか認められようと必死でした。
八面六臂の大活躍で領土を武田家史上最大にまで広げ、こと父でさえ落とせなかった高天神城(現:静岡県掛川市)を攻略するに至って「ついに父を超えた」と有頂天になります。
しかし、家老たちは「いや、そういうことじゃないんだ。信玄公が亡くなってまだ新体制が整っていない内からそんなイケイケだと、いつか足元をすくわれるから自重しろ」と諫めるばかりで、一向に勝頼を評価してくれません。
面白くない勝頼は、信玄公以来の家老よりも、自分の取り巻きばかりを重用するようになり、いっそう確執を深めていきました。
そんな中で勃発した長篠の合戦(現:愛知県新城市。天正三1575年5月21日)。
何もないところで真っ向から(兵の練度はほぼ同じ、かつ謀略などなしで)戦った場合、普通は数の多い方が勝ちます。
「勝てませんよ!もっと我らが優位に戦えるところまで敵を誘い込みましょう!」と決戦を諫める家老たちに対し、取り巻きたちは「いや、物見の報告によれば、敵の兵は前情報より少ないみたいだから勝てますよ!」と進言。
ここで勝頼は考えます。家老たちの無難な策を採りたいところだけど、そうすると何か悔しいし、もし取り巻きたちの言う通り織田・徳川が少なく、蹴散らす事が出来れば、家老たちも自分を認めざるを得まい……!

長篠の合戦。結果だけ見れば何とでも言えるが、現場には現場の葛藤と決断があった。「長篠合戦図屏風」より。
かくして「ここを決戦場とする!」と決断、全軍突撃を命じた勝頼ですが、欲に駆られた選択がよい結果を招くことは少なく、案の定と言うべきか織田・徳川は伏兵を隠しており、武田軍は散々に打ち負かされてしまいました。
「あーあ、だから言ったのに……」
長篠の合戦で多くの兵を失い、いわゆる「武田二十四将」と謳われた名将たちも多数討ち死に。這々(ほうほう)の体で甲斐国へと逃げ帰った勝頼は、抜本的な再建施策を求められます。
「……やむを得まい。現在対立している東の北条家と、再び同盟を結ぼう」
北条夫人が勝頼の元へ嫁いできたのは、そんな状況下でのことでした。
■幸せな新婚生活。しかし……。
さて、晴れて?夫婦(めおと)となった二人ですが、北条夫人は14歳、勝頼は32歳(天文十五1546年生まれ)。その年齢差は18歳と、親子でもおかしくないほど離れていました。
これから、むしろ彼の連れ子(亡くなった前妻の子)である武王丸(たけおうまる。後の武田信勝、11歳)の方がよほど釣り合いそうなものですが、北条家としては「当主自身の正室として、より重く扱うべし」という意向、つまり「今度は裏切るなよ」と言うメッセージが込められていたのでしょう。
ともあれ夫婦仲は円満で、また北条夫人は3歳下の信勝を実子のように慈しみ、信勝もまた北条夫人を母として敬ったということです。

武王丸(武田信勝)。実子でなくても、北条夫人は惜しみなく愛情を注いだ。高野山持明院蔵(Wikipedia)
※ちなみに、北条夫人自身は史料によって子を産んだという記録と、産まなかったという記録があります。
そんな幸せな家庭生活の傍らで、武田家は北条と同盟しながら再び力を蓄えていたのですが、天正六1578年に越後国(現:新潟県)を治めていた「越後の龍」こと上杉謙信(うえすぎ けんしん)が亡くなると状況は一変。
謙信には実子がおらず、その養子となっていた上杉景勝(かげかつ)と、上杉景虎(かげとら)が後継者争いを開始したのでした。
「あなた……どうか我が兄上・三郎(景虎)をご支援下さいまし!」
北条夫人は景虎を支持するよう勝頼に訴えましたが、景虎は北条氏康の子で、北条夫人にとっては兄に当たります。
一方の景勝は謙信の甥であり、北条家および武田家とは何の血縁もなく、筋道から考えれば勝頼としては義兄・景虎を支援すべきところでしょう。
「う……む」
しかし、勝頼は景虎の支援をためらい、少し考え込みました。上杉家の跡を北条家ゆかりの景虎が継いだ場合、北条&上杉が武田家の東側をすべて包み込んでしまいます。
「後顧の憂いなく織田・徳川に立ち向かえるではないか」とも考えられますが、逆に「北条を敵に回すと、同時に上杉も相手しなくてはならない」とも言えます。

武田家を取り巻く勢力概略図。勝頼の決断がその後の運命を大きく変えた(イメージ)。
それよりは、上杉に独立を保たせたまま恩を売って同盟しておけば、西の織田&徳川にも、東の北条にも睨みが効いて、その後の戦略も選択肢が広がる……!
と思っていたところへ、景勝から「此度お味方下さるなら、それがしは武田家の膝下に従い、越後との国境にある信濃の五ヶ村を割譲致しましょう」との申し出。
(これが実現すれば、わしは父が川中島で五度も戦いながら、ついぞ下し得なかった上杉家を従える偉業をなしとげ、口うるさい家老どもを黙らせることが出来る!)
「……よし、喜平次(景勝)殿にお味方致そう!」
「ええぇっ!?」
勝頼の決断に驚いた北条夫人は、必死になって再考を求めるも馬耳東風。後年「御館(おたて)の乱」と呼ばれる上杉家の家督争いは、景勝が制することとなり、敗れた景虎は自刃(切腹)に追い込まれてしまったのでした。
「あぁ……兄上を見殺しにされるなどと、あんまりなお仕打ち……」
「……許せ。これも武田家のためなのじゃ……」
勝頼はそう思っていたでしょうが、この決断が最終的には武田家を滅亡に追い込んでしまうことになります。
【続く】
※参考文献:
瀧澤中『「戦国大名」失敗の研究』PHP文庫、2014年6月
丸島和洋『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』平凡社、2017年9月
平山優『武田氏滅亡』角川選書、2017年2月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan