政略結婚にも愛はあった。武田家滅亡に殉じた悲劇のヒロイン・北条夫人【上】
時は天正五1577年、相模国(現:神奈川県)から坂東一円を支配していた北条(ほうじょう)家の姫が、甲斐国(現:山梨県)の武田勝頼(たけだ かつより)に嫁ぎます。
長篠の合戦(天正三1575年)で織田信長(おだ のぶなが)・徳川家康(とくがわ いえやす)連合軍に大敗して以来、斜陽となっていた武田家を再建するため、同盟の仲立ちとなったいわゆる政略結婚です。
それでも夫婦仲は円満で、先妻の子・武王丸(たけおうまる。後の武田信勝)らと共に幸せな新婚家庭を築いていきました。
勝頼に見殺しとされ、自害に追い込まれた上杉景虎(イメージ)。
しかし、天正六1578年に越後国(現:新潟県)の上杉家で御家騒動(御館の乱)が勃発すると、勝頼は欲に目がくらんで上杉景勝(うえすぎ かげかつ)を支援、北条夫人の兄である上杉景虎(かげとら)を見殺しにしてしまいます。
もちろん、勝頼なりの考えあっての事でしょうが、これが後に武田家を滅ぼす決定打となってしまうのでした……。
■東西から挟撃される勝頼、必死の外交奔走
「おのれ武田め、裏切りおったな!」
景虎を見殺しにしたことで、北条家は当然の如くカンカンに怒り狂って同盟を破棄。しばしば武田領へ侵略するようになってしまいます。
この動きを察知した織田・徳川も北条と呼応して、武田家の領地を東西から交互に侵略。東から北条が攻め込めばそれに対処し、撃退したと思ったら今度は西から織田・徳川がやって来て……その対応で勝頼は翻弄されることに。
……で、北条家を敵に回してまで同盟を組んだ景勝はどうかと言うと、なにぶん義理堅いのは結構ですが、いかんせん遠すぎて援軍が間に合わず、せっかくの軍事同盟なのに、ほとんど機能しませんでした。
東に怒り狂った北条、西に強大な織田・徳川、そして北には強くて義理堅いけどアテにできない上杉に囲まれ、武田家はジリ貧に陥ってしまいます。
何とかせねば……と、勝頼は天正七1579年に常陸国(現:茨城県)の佐竹義重(さたけ よししげ)と同盟を結びますが、これまた地理的に遠く、北条を東西から挟み撃ちして突破口を開くには力不足です。

勝頼の外交図。後に里見氏とも同盟し、遠交近攻を実践するも、若干の力不足は否めない。
しかし、この佐竹との同盟によって義重が仲介となり、織田との和解合意が成立しました。
これを甲江和与(こうごうわよ。江は江州=信長の本拠地・近江国の意)と言い、信長は義理の孫(※)に当たる武王丸の元服に際して、官途の奏請(朝廷に対し、官位を授けるよう奏上すること)を行っています。
(※)勝頼の先妻・龍勝院(りゅうしょういん。本名不詳)は信長の姪で養女となっていました。
「これで織田の後ろ盾が得られた。武王丸改め信勝のことも気に入っておるようだし、まずは大丈夫だろう」
「……そうだといいのですが……」
織田とは表向き和解したようでいながら、その「手先」である徳川は北条と通謀して相変わらず武田領を脅かし、一進一退を繰り返していました。
北条からの攻勢に悩まされた勝頼は天正九1581年に佐竹の仲介を得て安房国(現:千葉県南部)の里見義頼(さとみ よしより)とも同盟しますが、これも佐竹と同じで、北条氏の分厚い壁を突破するには至りません。
■見殺しにされた高天神城、家臣たちの相次ぐ離反
次第に手詰まりとなっていた勝頼の威信が一気に失墜したのは、同年3月「高天神城の戦い」。
守将・岡部元信(おかべ もとのぶ)が徳川に攻められて勝頼へ救援要請を出したものの、勝頼は信長への忖度から援軍を送らず、岡部らを見殺しにしてしまったのです。

「おのれ武田……っ!」見殺しにされ、敗死した岡部元信(イメージ)。
「日ごろ主君と仰ぐのは、ここ一番の庇護がため」……いざと言う時に守ってくれないヤツに、命を預けるなど出来はしない。信長が「勝頼は高天神城を見捨てた」と盛んに喧伝したことで、武田領には動揺が広がりました。
「もう武田は落ち目だ、従っていても先がない!」
代々仕えてきた譜代の家臣や、ことさら厚遇されてきた一門衆ならいざ知らず、ただ力で征服され、しぶしぶ従っていた国人衆が次々と武田を見限り始めてしまいます。
「おのれ、裏切り者どもめ……やはり戦に勝って、我が威信を取り戻さねば!」
勝頼は不屈の闘志を燃やしてなおも戦い続け、北条や徳川と死闘を繰り広げる一方では織田との和睦交渉を継続、何とか活路を見出そうとしていましたが、信長にその意思はありません。
信長は朝廷に働きかけて正親町(おおぎまち)天皇に「勝頼は朝敵(朝廷の敵=征伐対象)である」ことを認めさせ、近く兵を興すことを家臣たちに下知しました。
そして天正十1582年、信長が武田征伐の大軍を進めると、勝頼の義弟(信玄公の娘婿)であった木曾義昌(きそ よしまさ)が織田に寝返ります。
「ついに勝頼は、身内(一門衆)にまで見放されたぞ!」

裏切り者が続出する武田家中にあって、最期まで抵抗し、甲州武士の意地を魅せた仁科五郎盛信。
これを皮切りに武田家臣の離反が相次ぎ、瞬く間に領土が削り取られていきました。最期まで抵抗したのは勝頼の異母弟・仁科盛信(にしな もりのぶ)が守った高遠城のみで、残りはことごとく降伏。
極めつけとして、勝頼の義兄(信玄公の娘婿)である穴山信君(あなやま のぶただ。梅雪)までもが降伏。これによって駿河国(現:静岡県東部)を失い、とうとう甲斐一国にまで追い詰められてしまいました。
■「冥途もお供いたします」天目山で壮絶な最期
「……仕えて日の浅い国人衆が時の利害によって強き者へ寝返るはやむなき事とて、日ごろ御屋形様より厚遇されてきた譜代や御一門衆の裏切りは道理に合いませぬ!」
北条夫人は勝頼の武運と裏切り者たちの調伏を祈願して、武田家の氏神である武田八幡宮(現:山梨県韮崎市)に願文を奉納しました。

甲府盆地を見晴らす武田八幡宮。
「(前略)……みき(右)の大くわん(願)ちやうしゆ(成就)ならは かつ(勝)頼 我とも(倶)にしやたん(社壇)みかき(御垣)たてくわいろう(回廊)こんりう(建立)の事うやまつて申(す)いつか武田家の安泰を取り戻し、夫婦仲良く八幡様に奉仕できますように……そんな願いもむなしく、いよいよ織田の軍勢が甲斐国へなだれ込んで来ると、勝頼は北条夫人らを連れて岩殿山城(現:山梨県大月市)を守る譜代の家老・小山田信茂(おやまだ のぶしげ)を頼りました。
天正十ねん(年)二月十九日 みなもと(源)のかつ頼 内(うち)」
【意訳】
……以上、大願成就の暁には、勝頼と私で社殿や玉垣を建て、回廊も増築いたします……年月日 源(武田)勝頼の家内より。
しかし、信茂はとっくに織田へ寝返っており、あっけなく拒否されたばかりか鉄砲まで撃ち放ったというからあんまりです。
「……もはやこれまで……女子供を道連れにするのは忍びない。そなたは北条の実家を頼って落ち延びるがよい」
散々にさまよった挙句、天目山(現:山梨県甲州市)までたどり着いた勝頼は、北条夫人たちだけでも解放しようと彼女に離縁を申し出ますが、それは受け入れられません。
「いえ……ひとたび寄り添うた夫婦(めおと)なれば、冥途までお供いたしとうございます」
かくして勝頼親子3人以下武田主従は自決(勝頼37歳、北条夫人19歳、信勝16歳)、ここに甲斐源氏の名門・武田家は滅亡したのでした。

迫りくる織田軍に対し、最期まで戦い抜いた北条夫人。
【北条夫人 辞世の句】■終わりに
黒髪の 乱れたる世ぞ 果てしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒
【意訳】乱れ髪のような世の中に、色々思うことはあるけれど、すべて露のように儚く消えゆくばかりです。
帰る雁 頼む疎隔(そかく)の 言の葉を 持ちて相模の 国府(こふ)に落とせよ
【意訳】飛んで行く雁よ、私の実家を通るなら「ごめんなさい」と伝えておくれ……私は、もう帰れないから。
落陽の武田家に嫁ぎ、その滅亡まで七年間、最期まで勝頼を支え続けた北条夫人。
歴史に「if(もしも)」はないとよく言われますが、もし上杉家のお家騒動において、勝頼が北条夫人のすすめ通りに景虎に味方し、北条家と強固に連携し続けられていたら……そう考えると、北条夫人は武田家存亡のカギを握るキーパーソンだったと言えるでしょう。
自刃した勝頼親子は徳川家康が建立した景徳院(現:山梨県甲州市)の境内に葬られ、今も甲州の人々を見守り続けています。
【完】
※参考文献:
瀧澤中『「戦国大名」失敗の研究』PHP文庫、2014年6月
丸島和洋『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』平凡社、2017年9月
平山優『武田氏滅亡』角川選書、2017年2月
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