日本には約30万以上の苗字があるそうですが、山田とか鈴木と言った読みやすいものから、どうしてそう読むの?と思ってしまうものまで、様々です。

調べていると色々と発見するもので、今回は越後国(現:新潟県)の戦国武将・五十公野信宗を紹介。
名前(信宗)はともかく、五十公野って読めますか……?

■「いじみの」と読むようになった五十公野の由来

正解は「いじみの」。五は「い」つつ、十は「じ」ゅうで解りますが、公で「み」とはなかなか読みません。もしかして、き「み」でやんごとなき方(公家?)を表わしたのでしょうか。

現代の新潟県新発田市にある地名で、古くは「いきみの」の読み、一説によると五条道兼(ごじょうの みちかね)という貴族が当地の竜昌寺で没したことに由来するとも言われています。

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「我が名をこの地に……」名づけるよう遺言した?五条道兼(イメージ)。

「五」条のお「公」家様が亡くなった「野」として語り伝えられる内に五条が五十となり、真ん中の「き」が抜け落ちて「五十公野」で「いじみの」と呼ばれるようになったそうです。

他にも五十(≒とにかく沢山)の峰々が連なった地形から「いじみね」と呼ばれていたのが訛ったとする等の説もあります。

■上杉謙信に仕え、政治分野で才能を発揮

さて、そんな五十公野の地を治めたのは、越後の土豪・新発田(しばた)氏。古くは鎌倉幕府の御家人・佐々木盛綱(ささき もりつな)を祖とする近江源氏の末裔で、室町時代ごろに分家して当地へ土着、五十公野の名字を称します。

信宗はその家督を継承したのですが、元は越中湯山城(現:富山県氷見市)の城代・長沢筑前守光国(ながさわ ちくぜんのかみみつくに)に仕える小姓で、名は長沢勘五郎(かんごろう)と言いました。

読めたらスゴイ!越後国の難読地名が苗字となった戦国武将・五十公野信宗のエピソード


光国に仕えた勘五郎(イメージ)。

生年は不詳、主君と同じ名字であるため、恐らくは親族から取り立てられた美少年だったのでしょう。


そんな勘五郎は永禄十二1569年、上杉謙信(うえすぎ けんしん)の越中侵攻に際して主君と共に降伏し、謙信の傍に召し出されて長沢道如斎義風(どうじょさい ぎふう)と改名します。

いかにも出家したような名前ですが、後に上杉家の重臣である五十公野治長(はるなが)の妹婿となっているため、恐らくは雅号でしょう。

かくして上杉家に仕官した勘五郎改め道如斎は、才覚を認められて越後三条(現:新潟県三条市)の地で町奉行を拝命。その経営に手腕を発揮しました。しかし、彼もまた戦国乱世を生きる武士。政治分野で活躍したとは言え、決して文弱の徒ではありませんでした。

■御館の乱で活躍するも、恩賞の少なさに謀叛を起こす

道如斎の武勇が発揮されたのは、天正六1578年に没した謙信の跡目争いである御館(みたて)の乱。

実子のいなかった謙信の養子である上杉景虎(かげとら)と上杉景勝(かげかつ)の争いでは、義兄・治長に従って景勝に加勢。

景虎に味方した同族の加地秀綱(かじ ひでつな)が守る加地城(現:新潟県新発田市)を攻略して秀綱を捕らえ、また三条城(現:新潟県三条市)の神余隼人佑親綱(かなまり はやとのすけちかつな)を討ち取る武勲を上げました。

他にも、越後国の混乱に乗じて東から侵攻してきた蘆名盛氏(あしな もりうじ)や伊達輝宗(だて てるむね)の軍勢を撃退するなど、景勝の勝利に大きく貢献します。

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御館の乱で大武勲(イメージ)。

「これほどの働きなれば、さぞや重き恩賞に与れようぞ!」

果たして上杉家の跡目はめでたく景勝が継ぐこととなり、論功行賞の沙汰を待っていた天正八1580年、治長の長兄である新発田長敦(しばた ながあつ)が急死すると、治長は五十公野の家督を道如齋に譲って生家に戻り、新発田重家(しげいえ)と称します。


これによって道如齋は五十公野信宗と改名、五十公野城(現:新潟県新発田市)の主となったのでした。

しかし天正九1581年、論功行賞の沙汰を下された重家は、恩賞が「新発田の家督相続を認める」だけというほぼタダ働きの結果に愕然。亡き兄・長敦や信宗の武勲など、無きに等しい扱いです。

「……ふざけるな!いったい誰のお陰で上杉の家督を継げたと思っているのだ!」

主君への奉公は御恩あればこそ……恩賞に不満があれば謀叛を起こすのが乱世の習い。さっそく景勝に叛旗を翻した重家は、信宗や降伏した秀綱など一族をはじめ、景勝に不満を持つ国人衆を集めて新潟津(現:新潟県新潟市)を奪取。

当地に新潟城を築いたとされ(遺構は未発見)、まだ不安定な景勝政権に対して、北から圧力を加え続けるのでした。

■エピローグ

その後、かつて撃退した蘆名・伊達両氏の援軍も得たことで勢いを増し、6年間にわたって上杉景勝を脅かし続け、後世「新発田重家の乱」と呼ばれることになった謀叛でしたが、やがて蘆名氏と伊達氏が争うようになると、共に越後国から手を引いてしまいます。

これによって劣勢に転じた重家ですが、和睦の勧告も拒絶して徹底抗戦。家臣の討死や寝返りが相次ぎ、ついに信宗が守る五十公野城との連絡も寸断され、完全に孤立してしまいました。

「もはやこれまで……かくなる上は、一兵でも多く冥途の道連れにしてくりょうぞ!」

読めたらスゴイ!越後国の難読地名が苗字となった戦国武将・五十公野信宗のエピソード


完全包囲された五十公野城(イメージ)。

景勝の武将・藤田能登守信吉(ふじた のとのかみのぶよし)の大軍に完全包囲された信宗は最期まで奮戦しますが、調略によって家老の河瀬次太夫(かわせ じだゆう)らに裏切られ、天正十五1587年10月13日に討死。五十公野城も陥落したのでした。


ここに四代(※五十公野景家―弘家―治長―信宗)続いた五十公野家は滅亡、やがて重家も滅ぼされて越後国の勢力図は、大きく書き換えられていくことになります。

※参考文献:
「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典』角川書店、1989年9月
大場喜代司ら編『図説新発田・村上の歴史』郷土出版社、1998年12月

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