彼女たちは、その多くが本当は女性として生きたかったのに仕方なく男装しており、目的が果たされると女性に戻っているのですが、中には自らの意思で「男性として生きる」ことを選択した者もいました。
高場乱の肖像。Wikipediaより。
今回はそんな一人、幕末から明治時代にかけて活躍した「男装の麗人」高場乱(たかば おさむ)のエピソードを紹介したいと思います。
■世の「乱」れを「おさむ」る決意
高場「乱」とは名前からして凄いですが、乱という漢字には、物事が「みだれる」という意味に加え、その乱れを「おさめる」という意味もあり、彼女が元服に際して「世の乱れをおさめる」一助たらんとする決意表明が込められていたそうです。
さて、そんな乱は天保二1831年10月8日、筑前国博多の眼科医・高場正山(たかば せいざん)の末娘として誕生。「養命(ようめい)」という男性名がつけられます。
「父上、これは男の名前ではございませぬか?」
高場家には既に高場義一(よしかず、ぎいち)という嫡男がおり、とりあえず後継ぎには困っていませんでしたが、正山には考えがありました。
「わしは高場流眼科術を、この養命に継がせようと思っておる。そなたは更に研鑽を重ね、立身出世を果たすのじゃ」
「はぁ……」
かくして男児として育てられることになった養命は、11歳となった天保十二1841年に元服。名を小刀(こたち)と改名したところ、福岡藩主に同名の親族がいたため、遠慮して再び改名することに。

世の中、流されるばかりじゃつまらない(イメージ)。
そこで「絶対誰とも被らないであろう名前」として「乱」の字を選んだのですが、数え11歳で世の乱れを感じ取り、それを「誰か任せにせず、自分が何とかする、その力になろう」と決意する覚悟は、まさしく武士のものでした。
■小さな体躯に漲る武士の魂
女性としては極めて異例となる帯刀も正式に許可されたのですが、小柄で華奢な乱の体躯には甚だ不釣り合いで、中にはその姿をバカにする者もいたようです。
「おいチビ、その刀は飾りかよ?」
往来ですれ違ったガキ大将が、手にしていた薪雑把(まきざっぽう)で、乱の刀を小突きます。
「無礼者!」

抜刀する乱。さぁ、どうするのか(イメージ)。
侮辱に腹を立てた乱はすかさず抜刀、その切先をガキ大将に突きつけました。よもや抜くまい(あるいは抜けまい)とタカを括っていたガキ大将は俄かに怯み、道行く人々もざわつき始めます。
「各々方……この者は拙者の刀を飾りと吐(ぬ)かした!飾りであれば斬りつけても血は出なかろう……どうかご検分下され!」
言うなり乱は一刀を斬り下ろし、ガキ大将の薪雑把を両断します。
「あわわわ……」
「逃げるなよ、小童?これは『飾り』じゃ……よもやその方『飾り』を恐れはするまいな……?」
いったん跳び退(すさ)って距離を取り直した乱は、刀を構えながらジリジリとガキ大将に肉薄します。
「うぬが素っ首、血で飾れ!」
「ひえぇ……っ!」
乱が刀を大上段に振りかぶるや、ガキ大将は泣きながら転がるように逃げていったのでした。
以来、乱のことを(小柄な女の子と)侮る者はいなくなり、一人前の武士として一目置かれるようになったということです。
■「女性に戻れ!」父の命により、男性同士で結婚?
そんな乱に縁談が舞い込んだのは、17歳となった弘化四1847年。父・正山がこんなことを言い出しました。
「乱よ、婿をとれ!」
「はぁ?!」
生まれてこの方、自分を女性と思ったことがなかった乱にとって、今さら「女性に戻れ」と言われても困惑するばかりです。
「実は、そなたを男として育てたことを後悔する夢を見てから、寝覚めが悪くてかなわん。やはり女子(おなご)は女子として生きるのが人間のあるべき姿……そういう訳で、これより女子に戻って婿をとるのじゃ!」
「え、えぇ~……」
理不尽この上ない申しつけではあるものの、家長の命は絶対……そこで仕方なく、乱は生まれて初めて女装(花嫁衣裳)に身を包み、婚儀に臨んだのでした。

乱の婚儀。このまま無事に済むのだろうか(イメージ)。
(……何だ、この男は……!)
迎えた花婿の面貌と言えば、泰平の世にふやけ切った柔和そのもの……乱の心底げんなりした顔が目に浮かぶようです。
(これじゃ、どっちが女だか分かったモンじゃない!)
往時の武士たちは衆道(しゅどう)を嗜み、男性同士で愛し合ったと言うが、それは共に命を預け合う同志の絆を深めるための営み……こんな男に命はもちろん、家運を託してなどなるものか……!
そう思い決めた乱は、花婿を試すことにしました。
■「問う。そなたの男根は……」乱が突きつけた三行半
さて、新婚と言えば初夜の営みがお約束……早々に身支度を整えた乱は、床に控えて花婿を待ち(構え)ます。
「ふふ~ん♪」
湯から上がって来た花婿は、何も知らずに閨(ねや)へとやって来ました。
(相変わらず、腑抜けヅラをしおって)
内心の怒りを抑えながら、恭しくお辞儀をする乱の端正な仕草に、花婿はぞっこん。
「むふふ……そなた……愛(う)いのぅ、愛いの~ぅ!」
匂い立つような美しさに理性の箍(タガ)が外れたのか、今にも飛びかかろうとした次の瞬間。
「ひっ!」
寸止めにした拳には刀が握られ、腕からは血管が浮き出ています。思わず腰を抜かした花婿を睥睨(へいげい)するように、すっくと乱は立ち上がりました。

花婿との初夜に臨む乱(イメージ)。
「問う。そなたの男根(マラ)は、刀(これ)より固いか?」
すかさず左手で花婿の股間を鷲掴みにし、寝間着やら褌(ふんどし)やら一糸残さず引き剥がします。
「うゎっ……ひゃあぁっ!」
「……なんだコレは。蒟蒻(コンニャク)か?それとも稲荷寿司(いなりずし)か?」
「嫌っ……やめてっ!揉みしだかないでぇっ!」
「えぇい、こんな男に抱かれかけたと思うだけで屈辱だ!」
「〇×△……っ!」「◇☆@……っ!」
……とまぁ、そんな散々な初夜から間もなく、乱は花婿に三行半(みくだりはん。離縁状)を突きつけてしまいました。
婿養子だったので話は早かったようですが、「こんなどうしようもない男を、路頭に迷わすのも気の毒だ」とばかり、財産の半分をくれてやったと言うから豪快です。
※ちなみに、甚だ凡庸であることを理由に離縁されたこの花婿は名前も記録されておらず、可哀想な気もしますが、せめてもの情けだったのかも知れません。
■エピローグ
「……父上!やはり、それがしに女子は無理にございます!」
間もなく正山が隠居すると、乱は若くして高場流眼科術を継承(兄の義一は秋月藩医として仕官)。
この頃、幕末維新の先覚者である小金丸源蔵(こがねまる げんぞう。後の平野国臣)と出逢い、新時代の日本国を背負って立つ人材育成の要を痛感。

黒船の来航により、日本中に激震が走った。
黒船来航(嘉永六1853年)によっていよいよ動乱の世が幕を開けようとしていた安政三1856年、乱は私塾を開いて教育事業に乗り出し、その志を多くの者たちに伝えていくことになりますが、その物語はまたの機会に。
女性として生まれながら、誰よりも男らしく、そして武士らしく生きようとした「男装の麗人」高場乱。博多が生んだ女傑の生き様は、幕末を経て明治の男たちにも受け継がれていったのでした。
※参考文献:
小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL大東亜論 第二部 愛国志士、決起ス』小学館、2015年12月
田中健之『靖国に祀られざる人々 名誉なき殉国の志士たちの肖像』学研プラス、2013年6月
永畑道子『〈新版〉凛 近代日本の女魁・高場乱』藤原書店、2017年6月
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