今回は、戦国切っての策謀家・宇喜多直家の所業をご紹介する。
宇喜多直家 Wikipediaより
■苦しい子供時代
1529年。備前国(現在の岡山県)の国人であった父「宇喜多興家(うきたおきいえ)」の子供として生まれる。祖父「能家(よしいえ)」は、備前国で守護代を努めていた浦上氏に仕えた有能な武将だったが、同じく浦上氏の家臣であった島村盛実によって暗殺されてしまう。
直家は幼くして(5歳前後といわれている)祖父を失った事を契機に、父親と共に放浪生活を余儀なくされたという。父親である興家も1530年代後半には死亡しているようで、死因ははっきりしないが、暗殺とも病死ともいわれている。
一説には、親子で備後国(現在の広島県)の鞆に落ち延び暮らしたとされる。

直家の祖父「宇喜多能家(うきたよしいえ)Wikipediaより
■浦上氏家臣へ
成人した直家は備前国の浦上宗景に仕える。浦上氏内部で政策の違いから兄である政宗と弟の宗景が対立すると、直家は宗景に臣従した。1556年~57年には、過去に祖父が城主であり、自身が生まれたとされる砥石城(といしじょう)を政宗方から奪還。浦上家家臣の中で徐々に頭角を表していった。
■祖父の仇と義父、義弟を謀殺
直家は浦上氏の重臣となっていた祖父の仇・島村盛実を謀反の嫌疑で暗殺することに成功する。
1561年。砥石城に続き信正の沼城も陥落させた直家は、以前から浦上氏と敵対関係にあった松田氏配下の武将・穝所職経(さいしょもとつね)を謀略の末に殺害。職経の妻は直家の妹であり義弟関係にあったが、直家は職経の男色好みを利用して小姓の美男子を刺客として送り込んだという。
■日本初の要人狙撃事件
1566年。敵対していた備中国(現在の岡山県)の大名・三村家親(みむらいえちか)の暗殺計画を実行。浪人であった遠藤俊通・秀清兄弟を使い、短筒の火縄銃を用いて狙撃。暗殺を成功させる。
銃を用いた暗殺事件の成功例としては日本で最初の事件ともいわれている。
【中編】に続く
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