1582年に起こった本能寺の変によって、織田家内の勢力図は一変した。最後である【後編】では、信長亡き後に息子たちが辿った運命をご紹介する。


これまでの記事

ポスト織田信長を巡って大混乱。生き残りを掛けた織田家重臣たちの運命【前編】

ポスト織田信長を巡って大混乱。生き残りを掛けた織田家重臣たちの運命【中編】

■信長の息子たちの去就

織田信雄(おだのぶかつ・のぶお) 信長の次男として生まれる。本能寺の変後は後継者としての意思を見せるも、秀吉による三法師擁立によって機会を逸する。弟の信孝と後継問題によって対立し、賤ヶ岳の戦いでは秀吉方として信孝・柴田勝家軍と戦った。

小牧・長久手の戦いでは、秀吉に反旗を翻したものの、その後は臣従した。1590年に改易され領地を没収されたことがきっかけとなり出家。

関ヶ原以降は豊臣と徳川の間で沸きらない態度が続いたが、大坂冬の陣では徳川方につき大名に復帰。1630年に73歳で没した。

ポスト織田信長を巡って大混乱。生き残りを掛けた織田家重臣たち...の画像はこちら >>


織田信長の三男「織田信孝」(Wikipediaより)

織田信孝(おだのぶたか) 信長の三男として生まれる。清洲会議で主導権を握った秀吉の態度に反目し、柴田勝家と手を結ぶ。兄である信雄が秀吉と結託すると、両陣営の対立構造が明らかとなり賤ヶ岳の戦いが勃発。
信孝は味方の出兵に呼応する形で挙兵。奮闘するも、柴田勝家の自刃に伴い降伏する。

その後、尾張国内の安養院(あんよういん)で信雄の命により切腹。享年26。切腹の際には床の間の掛け軸に臓物を投げつけたとされる。安養院には、信孝が使用した短刀や臓腑の血に染まった掛け軸などが現存するという。

■本能寺後の明暗

信長の仇である明智光秀を討った秀吉は、1591年(異説あり)に天下統一を成す。信長に仕え政権の中軸を担った重臣たちの大半は、秀吉の天下平定以前に死亡している。

清洲会議に関わった大名たちの家臣や子孫たちは、秀吉に臣従することで子孫を繋いだ。秀吉自身は1598年に死去。享年62(諸説あり)。

後継者である豊臣秀頼は、1615年に起こった大坂夏の陣で自刃。
豊臣宗家は滅亡し、結果的に豊臣政権は短期のうちに幕を閉じた。

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

編集部おすすめ