平将門。
他にも朝廷に対して大規模な反乱を起こした者はいるものの、自分が天皇に成り代わる「新しい天皇」すなわち新皇と称した例は、後にも先にもこれ限りです。
さて、そんな大事件が東国で起こっているほぼ同時期に、西国でも藤原純友(ふじわらの すみとも)が、瀬戸内海を股にかける大反乱を起こしています。
両者を合わせて「将門・純友の乱」あるいは年号から「承平天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱」とも呼ばれますが、平将門はともかく藤原純友についてはあまり知られていない印象です。
(※もしかしたら、それは東国に住んでいる感覚であって、もしかしたら、西国在住の方から見れば逆に感じるのかも知れませんね)
そこで今回は、平安時代の日本を大いに震撼せしめた西国の大海賊・藤原純友について紹介したいと思います。
■名門の生まれだが、出世競争からドロップアウト
藤原純友の生年については諸説ありますが、ここでは寛平5年(893年)、摂関家として栄華を極めた藤原北家(ふじわらほっけ)の末裔・藤原良範(よしのり)の三男として生まれました。

北家は後に、かの藤原道長も輩出。菊池容斎『前賢故実』より。
このまま順当に行けば本家の威光でそれなりの出世が望めたはずですが、早くに父を亡くしたことで後ろ盾を失い、都での出世レースから脱落してしまいます。
現代人の感覚だと「出世は本人の努力や能力(+運)しだいじゃないの?」と思ってしまいがちですが、平安時代の貴族社会は家柄やコネが出世に大きく影響しました。
誰だって我が子が可愛い(あるいは自分の息がかかった手駒を推したい)……となれば、バックアップのない若造が、努力や実力だけで出世競争を勝ち抜くのは至難の業。
こうして早々にドロップアウトした純友は、しばらくこれと言った(記録に残るような大きな)お役目もなく、無聊をかこっていたようです。
そんな暮らしが続いた承平2年(932年)、純友のいとこおじである藤原元名(もとな)が伊予守(現:愛媛県の国司)となり、現地へ赴任する際に純友を誘いました。
「なぁ、海賊退治に力を貸してくれないか?」
「そうだなぁ……このまま都で腐っているより、よっぽどいいな!」
かくして伊予掾(じょう。国司のアシスタント的存在)として元名に随行した純友でしたが、赴任先での体験が、その後の人生を大きく変えていくのでした。
■ミイラ取りがミイラに?海賊になった純友の元へ……。
「……俺たちが、好きでこんな暮らしをしていると思っているのか」
伊予国へ赴任した純友は、瀬戸内海に跳梁跋扈する海賊たちを次々に追捕しましたが、次第に「なぜ彼らは海賊行為に走るのか」を考えるようになります。
「誰が人を殺して血を流し、役人に追われながら暮らしたいと思うものか」
「まっとうに生きていけるなら、そもそもこんな事はしていない」
「いくら汗水流して働いたところで、お上がすべて奪っちまう。だったら、俺たちが奪ったっていいじゃないか」
口々に出て来る政治への不満……こうした声に影響されたのか、承平5年(935年)になって元名が伊予守の任期を終えて帰京しても、純友は帰りませんでした。
「よぅし野郎ども!今日もいっちょう稼ごうぜ!」
「「「おおぅ……っ!」」」

海賊の頭領として名をはせた藤原純友。Wikipediaより。
海賊退治で得たノウハウを遺憾なく発揮した純友は海賊社会でのし上がり、承平6年(936年)ごろにはひとかどの頭領として知られるようになります。
「生きてここを通りたければ、相応の『誠意』ってモンを見せてもらおうか。」
「この先には『海賊』どもがウヨウヨしているから、俺たちが護衛してやろう。もちろん、感謝の『気持ち』を忘れるなよ?」
……とまぁそんな具合に、富める者からは奪う一方、貧しい者に分け与え……たのかは定かではありませんが、とにかく海賊稼業に勤しんでいたある日、備前国(現:岡山県東部)を縄張りとしていた藤原文元(ふじわらの ふみもと)から使者がやって来ます。
この文元、かねて備前の国司を望んでいましたが、叶わず藤原子高(ふじわらの さねたか。同族かは不詳)にお株を奪われ、不遇の日々を過ごしていました。
で、その文元からの用件は「一緒に挙兵しねぇか」とのこと。国司の館を襲撃しようと言うのです。
■「海賊王に、俺はなる!」朝廷に叛旗をひるがえした純友
これまで、ケチな海賊稼業に手を染めて、追捕の役人が来たら逃げたり賄賂で懐柔したりしていた純友ですが、もし国司に手を出せば、それは紛れもなく朝廷に対する叛逆であり、もう後には退けなくなります。
「……そんな事をしたら、流石に朝廷も黙っていないぞ?」
「そンなこたぁ百も承知さ。でもな、考えてもみろよ。このままセコセコと稼いで、役人連中に賄賂を貢いで……結局、小役人だったころと一緒じゃないか?」
「まぁ……そうだな」
「人間、生まれたら一度は必ず死ぬんだ。同じ死ぬなら、小役人としてよりも、朝廷に叛旗を翻した大悪人として……そうとも、海賊王になろうじゃないか!」
「海賊王か……」
「そうさ。一度きりの人生だ。上手く行けば王になれるか、あるいは朝廷から招安(しょうあん)の話があるかも知れない。やってみる価値はあるだろう?」
招安とは、鎮圧しきれない賊徒に対して朝廷が「官位や褒美などやるから、大人しくしてくれ」というもので、お隣の中国大陸などでは、強大な賊徒がそれで立身出世を果たした例が多くあります。

かくして反乱は勃発した(イメージ)。
死んでもともと、成功すれば王か出世か……どう転んでも悪くはないと読んだ純友は「海賊王に、俺はなる!」とばかりに挙兵。
天慶2年(939年)12月、純友は文元と共に、備前の国司・藤原子高を攻略。その勢いで播磨国(現:兵庫県南部)の島田惟幹(しまだの これもと)の館も攻め落とし、大いに気勢を上げたのでした。
■朝廷の混乱に乗じて、瀬戸内海の覇者となる
「陛下!一大事にございまする!」
純友挙兵の急報がもたらされた頃、関東では平将門が大暴れしており、東西同時の反乱に、朝廷は上を下への大混乱でした。
「どうしよう!?」
……どうすると言っても、東西同時に討伐する兵力の余裕はありませんから、まずは関東の将門を討伐することにして、純友らに招安を呼びかけました。
「そなたを従五位下に叙する」

純友の懐柔に乗り出す小野好古。菊池容斎『前賢故実』より。
天慶3年(940年)1月、山陽道追捕使に任命された小野好古(おのの よしふる)は純友に官位を与え、また文元を備前介(すけ。国司のアシスタント的存在。守>介>掾)に任じました。
「やったぜ!」
(これで、とりあえずは大人しくしておいてくれよ)という朝廷のメッセージは百も承知でしたが、純友たちは貰うモノだけ貰っておいて、相変わらず海賊稼業は継続します。
「今は東国の将門で手一杯みたいだから、今の内に暴れ回っておけば、連中ふるえ上がって、もっと色々くれるかも知れねぇな!」
「よっしゃ!行くぜ!」
調子に乗って淡路国(現:兵庫県淡路島)、讃岐国(現:香川県)の国府も攻略し、瀬戸内海のほぼ全域を掌握。西国の要衝である大宰府(だざいふ)まで脅かすようになったのでした。
「わっはっは!これで俺も海賊王だ……」
ここまで快進撃を続けた純友は高笑いが止まらなかったでしょうが、これが彼のピークでした。
■勇猛果敢に抵抗するも……海賊王の最期
さて、関東全域に猛威を奮い、いっときは新王朝の樹立かと思われた平将門ですが、平貞盛(たいらの さだもり)や藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)らによってあっけなく討ち取られてしまいます。
「さぁ、これで西国の海賊どもを一網打尽じゃ!」
天慶3年(940年)2月、朝廷は小野好古を総大将として、次官に源経基(みなもとの つねもと)、主典に藤原慶幸(ふじわらの よしゆき)と大蔵春実(おおくらの はるざね)という本気メンバーで大軍を動員。
「新皇(将門)はまぐれの流れ矢で命を落としたそうだが、海風は我らの味方……野郎ども、負けンじゃねぇぞ!」
「「「おおぅ……っ!」」」

陣頭で全軍を叱咤激励する純友(イメージ)。
純友は勇猛果敢な海賊たちの総力を結集、瀬戸内海を股にかけた抵抗戦を繰り広げること1年以上、勝負は年も明けた天慶4年(941年)にまでもつれ込みました。
「ちくしょう、後顧の憂いがなくなったら、もう招安はないか……」
「こうなったら、後は実力で『王位』を死守するしかねぇな!」
決死の覚悟もむなしく、同年5月に博多湾の海戦で惨敗を喫した純友は本拠地の伊予国へ逃げ込みましたが、警固使の橘遠保(たちばなの とおやす)によって討ち取られてしまったのでした。
純友の死については諸説あり、生け捕られて獄中で死んだとも処刑されたとも言われ、また後世で言う「判官びいき」の心情から「実は生き延びて、南海の彼方へ逃げ去った」という話もあります。
■エピローグ
かくして朝廷を東西から脅かし、日本史上最大の反乱となった「承平天慶の乱」は幕を引いたのですが、純友と将門の挙兵タイミングがほぼ一致していることから「実は東西で共謀していたのではないか」という説もあるそうです。

もし将門が純友と大志を語り合えたら、どれほど胸がすいたことか。月岡芳年「本朝百勇傳 平親王相馬将門」より。
純友は将門と二人で比叡山に登り、その山頂から京の都を見下ろして
「お主(将門)は桓武天皇の子孫であるから皇位に君臨し、俺は藤原氏であるから関白として新しい国家の政治を司ろう」
と約束したそうですが、はっきりとした記録はなく、フィクションである可能性が濃厚です。
とは言っても、皇室(朝廷)に対しては誠に不敬ながら、民を虐げる政治に不満の声を上げ、日本国を東西から揺るがした承平天慶の大反乱は、人々にとってはある種の快挙だった?のかも知れません。
※参考文献:
松原弘宣『藤原純友 人物叢書』吉川弘文館、1999年2月
福田豊彦『中世成立期の軍制と内乱』吉川弘文館、1995年1月
宇神幸男『宇和島藩』現代書館、2011年7月
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