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水上の小舟で切腹。秀吉に武士の鏡と称賛された戦国武将「清水宗治」の忠義【前編】
■備中高松城の戦い
備中高松城の戦い(Wikipediaより)
1582年3月。織田信長から中国攻めを任されていた羽柴秀吉は、自軍の2万と織田氏に寝返った宇喜多軍の1万を加えた3万の軍勢で、宗治の居城である備中高松城を目指した。
沼地や湿地による天然の堀を纏う備中高松城は平地戦に強い城であり、兵力に劣る宗治軍は総勢5,000程といわれる兵すべてが籠城し、秀吉軍を迎え撃った。
この時、秀吉は備中・備後の2カ国を見返りに降伏を迫ったが、宗治は拒否。信長からの誓約書を主君である毛利輝元のもとに届け忠義を貫いた。
秀吉は備中高松城を水攻めで落城させることを決定。5月には水を溜めるための堤防工事に着手する。工事には地元の農民も動員し、折しも梅雨時期と重なったこともあり、わずか2週間程度で備中高松城は水の中に浮かぶ孤島となった。
堤防の完成によって周囲が水没した備中高松城は、兵糧の補充路を絶たれ、毛利氏本軍からの援軍も救援を行うことができなかった。
■講和の成立と宗治の死
1582年の3月に甲斐武田氏が信長によって滅ぼされると、京都を中心とした反信長勢力は弱体化し、信長と敵対する毛利氏にとって極めて不利な状況となる。
このような情勢を鑑みて秀吉は毛利氏と講和を開始。毛利氏との和議となったが、「土地の割譲と城兵の生命保証」を要求した毛利氏に対し、秀吉は「土地の割譲と城主・宗治の切腹」を要求。条件面で折り合わず物別れに終わる。
毛利氏は宗治の助命のために秀吉への降伏を勧めるが、宗治は断固拒否。毛利氏の度重なる説得も聞き入れず、自身の切腹をもって籠城者の命を助けるようにという嘆願書をしたため秀吉に送った。
■最後

清水宗治の首塚(wikipediaより)
6月4日。宗治の切腹決断によって講和は成立。宗治以下3名(兄や弟も連座し切腹した)は水攻めによって満たされた水上に小舟で漕ぎ出し、杯を交わして舞を披露した後に切腹した。享年46。
宗治が切腹したのは本能寺で信長が横死した2日後であり、秀吉は信長の死を隠匿したまま毛利氏との講和を成立させた。信長の生死が宗治の運命に影響を与えた可能性は定かでないが、宗治が信長の死を知らずに自刃したことは事実とされている。
秀吉は宗治の切腹に感嘆し、武士の鏡と称賛したという。
息子は小早川隆景より「景」の字を与えられ景治(かげはる)と名乗った。景治は毛利家当主の輝元や隆景に厚遇され、天下統一後の秀吉からも直臣の誘いを受けるが、父・宗治と同様に生涯毛利氏・小早川氏に仕え忠義を貫いた。
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