標高867mの山の中、空海が築いた道場そのものが「一山境内地」として寺の敷地と扱われ、現在も117の寺が存在し、そのうち52の寺は宿坊です。筆者が訪れたときは冬の真っただ中で日中も-4℃、出歩く人もまばらで凛とした空気が張り詰めていました。
今回は有名な場所ではなく、見過ごしてしまいがちな高野山ならではの場所としきたりを紹介します。
■弘法大師って、空海と同一人物?
空海は弘法大師という名で全国に伝説が残っています。空海と弘法大師と別人と混同する方もいますが、「弘法大師」という尊称は空海の死後86年後に醍醐天皇から送られた「諡号(しごう)」です。
ちなみに空海という名を名乗ったのは、高知県の室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったためと伝えられています。
■女人堂と女人道
高野山は明治39年まで女人禁制でした。実は明治5年(1872)には政府により、「神社仏閣ノ地ニテ女人結界之場所有之候所、自今被廃止候条、登山参詣、可為勝手事」と発布されていましたが、千年以上も女人禁制を貫いてきた霊場が一夜で「はい、そうですか」とはならないもの。35年後の弘法大師1100年記念法会の日に、金剛峯寺座主の宥範大僧正という方が女人禁制の廃止を下したのでした。
高野山への参詣路は「京大阪道」「町人道」など、いくつもありますが、女性は「女人堂」と呼ばれるお堂までしか行くことができず、そこで参拝しました。かつては高野七口と呼ばれる7つの街道すべてにありましたが、現在では不動坂口女人堂のみとなり、その歴史を伝えるようにぽつんと離れた場所に残存しています。
また、高野山の周囲には「女人道」という登山道が存在し、いくつもの参詣路から続いていました。
筆者も同じルートをたどり、その当時の女性の気持ちを味わいました。長い旅路を経て、ようやっと目視できる場所までくると、何か感慨深いものがこみ上げてきました。
女人堂のすぐ近くの燈籠。ここから先は女人禁制でした

唯一残る不動坂口女人堂

弁天岳へ続く鳥居

登山道からちらりと見える高野山の中枢、「根本大塔」
■空海は生きている…1200年続く「生身供」とは?
今だ奥の院で祈りを捧げていると伝えられる空海。
毎日朝6時と10時半に、空海へ食べ物をささげに行く「生身供(しょうじんぐ)」という儀式が行われます。
この儀式は空海の入定(にゅうじょう)から現在まで1200年もの間脈々と続けられているという凄い儀式なのです。
空海は高野山の東、「奥の院」の御廟という場所にいるとされ、手前には「御廟橋」があり、そこから先は脱帽・撮影禁止となっています。承和元年(834)に空海自ら入定場所を定めて、翌年3月に入定が近くなると弟子に自らの体を運ばせます。そして3月21日午前4時に御廟に入り、「永遠の瞑想」へ入ったと伝えらています。
ちなみに入定という言葉は主に空海にのみ使用されているようで、悟りを開いた状態と同義です。
「生身供」の手順は、御供所(ごくしょ)という場所で食事が調理され、維那(ゆいな)という役職の高僧が御供所のすぐ傍にある嘗試地蔵(あじみじぞう)の前に捧げて味見をしてもらいます。2人の僧がその膳を白木の箱に納め、維那が先頭に立ち御廟へと運んでいきます。
維那は燈籠堂の奥の御廟へ食事をお供えした後、読経して再び御供所へと戻ってきます。
ちなみに燈籠堂は治安3年(1023年)、藤原道長によって現在の姿に整えられたといわれ、堂内には祈親上人や白河上皇が奉納した燈が「消えずの火」として燃え続けています。

嘗試地蔵


御廟橋
■宝来飾紙(ほうらいかざりがみ)
高野山に訪れると、寺務所や本殿や参拝所などいたるところに白い切り紙が掛けられているのが目につきます。
これは俗に「宝来」と呼ばれるもので、高野山独自の風習。高野山では標高が高く稲作ができず、注連縄を作る藁を入手するのが困難だったため、空海が中国にいたころを思い出し代わりに作られたといいます。
切り紙は三種類で「寿、宝珠、干支」が一般的ですが、寿の代わりに宝船を用意するなど、お堂により種類が異なることもあるようです。
関西地方や奈良でもみかけますが、高野山を詣でた参詣者が持ち帰って貼っているもので、風習としては高野山が発祥とされています。
貼る場所は神棚や床の間や玄関などで、基本的には一年中掛けておき、正月に掛け替えます。

こ年の干支「牛」の宝来
他にもたくさんご紹介したいものはありますが、空海伝説はまた別の機会にしたいと思います。
写真:筆者撮影
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