ただ、功績や活躍ぶりよりも、「女好き」ということが後世に語り継がれることとなった残念な偉人もいます。
この記事では、そんな残念な偉人の1人「池田綱政」についてみていきましょう。
■「池田綱政」とは
Wikipediaより
池田綱政(1638年~1714年)とは、備前岡山(岡山県)の2代目藩主です。
有名な功績と言えば、現在の岡山県岡山市にある日本三名園のひとつ、「後楽園」を造営したことでしょう。
東京ドームの約3個分の広さを有すると言われる「後楽園」は、綱政が代官の津田永忠に命じて14年の歳月をかけて完成させており、元禄文化を代表する日本庭園です。
また、芸術性や観賞価値が高い土地に指定される名勝として大正11年に指定され、昭和27年には特別名勝に指定されるなど、時代を超えて人々を魅了し続けています。
そのほか、倉安川や百間川の治水工事をして洪水対策をおこなったり、新田開拓をしたりして岡山藩の財政難を再建した名君とも言える人物なのですが…
■手当たり次第に女性を抱く「池田綱政」

※画像:写真AC
綱政が生涯にもうけた子供の数は、なんと「70人以上」といますから、どれだけ手当たり次第に女性を抱きまくったのかは想像がつくところでしょう。
そのため、城内では常に女性たちの争う姿が見られ、怒鳴り声も聞こえていたと言います。
ただ、当の本人は「のほほ~ん」としていたそうです。
■幕府には過少報告
70人以上の子供をもうけたとされる綱政ですが、幕府には過少報告しており、「寛政重修諸家譜」では14人と記されています。
さすがに、70人以上もの子供は届けにくかったのかもしれませんね…
…と、ここで終わってしまうと、綱政に残念なイメージがついてしまうことでしょう。
そこで、綱政が後楽園を造営した理由と活用方法について紹介し、少しイメージアップをしておきたいと思います。
■後楽園の活用法

後楽園の築庭は、美しさを追求した観賞のみの庭園ではなく、藩主や側室の女性などが人目につかぬよう城と城下町を行き来できるようにする警備上の目的などもあったようです。
観賞面での活用

綱政は、造営した後楽園に家臣の家族のみならず領民も招いて能を公開したほか、参勤交代で自分が留守にするときには日を決め、領民も庭園を見学できるようにしました。
警備面での活用 城内での火災発生となった場合には、側室や姫、そして城内に住む女性を後楽園へと避難させるよう側近に命じています。
■憎めない殿「綱政」
参勤交代の道中でも足を止めて富士山を眺めたと言われる綱政、美しい景観だけでなく、美しい女性にも目がなかったのかもしれませんw
70人以上の子供をもうけたことで、「女好き」がクローズアップされがちな綱政ですが、この記事でも紹介したように多くの功績をおさめた人物でもあります。
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