かつて、呑み屋なんかで女性相手に嘯いては得意になっている方を見かけたものですが、女性の「すごーい!」というセリフには、その後に(ドン引きー!)という本音が隠されていることを忘れてはいけません。
さて、古来「喧嘩両成敗」などと言われる通り、喧嘩なんて売っても買ってもダメなものですが、中には喧嘩せずにはいられない、そんな難儀な方もいるようです。
今回紹介するのは博多の「喧嘩勘兵衛」こと小森勘兵衛(こもり かんべゑ)。彼の乱暴無類な喧嘩人生の中から、特に無鉄砲極まるエピソードを紹介したいと思います。
■喧嘩勘兵衛、選挙干渉で大暴れ!
小森勘兵衛についてその出自や生没年は不詳、博多の侠客「勇敢仁平」こと大野仁平(おおの にへい)の子分となりました。
「カラスの鳴かない日はあっても、勘兵衛が喧嘩せぬ日はない」
とかく喧嘩っ早かった勘兵衛(イメージ)。
地元でそう囁かれるほど喧嘩っ早く、命知らずな子分たちの中でも、ひときわ無鉄砲な存在として一目置かれて(敬遠されて?)いたようです。
「親分、次の仕事(喧嘩)はまだですかい?」
「まったくお前は……喧嘩ばっかりじゃ渡世はならねぇって何度言ったら……」
さて、そんな勘兵衛に大活躍のチャンスがやって来たのは、明治25年(1892年)の第2回衆議院議員総選挙。
時の松方正義(まつかた まさよし)内閣が、海軍予算の拡充を推進するため、反対する民党(野党)を妨害して吏党(与党)を助けるという、後世に悪名高き「選挙干渉」を行った時のことです。
「いいか!民党支持の有権者へ一軒々々『ご挨拶』して、吏党への投票を『お願い』して来るのだ!」
「「「へい!」」」
具体的には賄賂を渡して買収し、それに応じなければ力ずくで脅し、抵抗するなら殺害も辞さないという、実に凄まじい「お願い」だったそうです。
こういう荒事なら我らにお任せ……ということで、仁平一家も意気揚々と出陣。もちろん勘兵衛も大立ち回りを演じるのですが……。
■敵も味方も関係ねぇ!目の前のヤツはすべて斬る!
さて、毎日どこかで銃声や剣戟が響き、火の手の上がらぬことはなかった、ある夜のこと。
各地に展開している子分たちを指揮していた仁平のもとへ、血みどろ姿の勘兵衛が帰って来ました。
「おい、その姿はまさか斬(や)られたか!?」
しかし勘兵衛は呼吸こそ荒いものの外傷はほとんどなく、返り血を浴びただけのようです。

敵か味方かも判らず、斬りかかる勘兵衛(イメージ)。
「何ぶん暗がりで誰が誰だか判らなかったが、大牟田(おおむた)川のほとりを歩いていたら、向こうから三人やって来て、真ん中のヤツが頭目らしかったので、そやつを斬った」
それを聞いて仁平は心底呆れ、怒りました。
「お前、敵か味方かも確かめないで斬ったのか?もし味方だったら何とするつもりだ!」
「そんなこたぁ、俺には皆目わからねぇ。俺は今喧嘩をしていて、相手がいるから斬っただけだ……もし味方だとしても、今は命のやりとりをしているんだから、誰に斬られようとそんな事は関係ねぇ」
まったく無鉄砲もいいところですが、なるほど喧嘩勘兵衛の二つ名に恥じないと言うべきなのでしょうか。
「まぁ……今さら斬(や)っちまったものは仕方ないさ。お前、今から警察に出頭して来い。警察は俺たち(吏党派)の味方だから、(形だけ取り調べて)すぐに釈放してもらう手はずをつける」
勘兵衛では上手く事情を話せまい、と書状を認めた仁平はそれを勘兵衛に渡すと
「いいか。取り調べでは『向こうが先にピストルで撃って来たから、逃げることも叶わずやむなく斬った』と言え。そうすれば、正当防衛で見逃してくれるから」
と言い添えて、警察に出頭させたのでした。
■取調室にて
さて、勘兵衛が警察に出頭すると、既に事件は発覚しており、斬り合い現場の検証もすんでいたようでした。
「おぉ、来たな。
フランクに取調室へ招き入れられた勘兵衛は、自分の斬った相手が民党派の領袖で、福岡県会議員の永江純一(ながえ じゅんいち)だと知らされます。

永江純一。今回の事件で一度は辞退するが、その後当選して衆議院議員を務めた。Wikipediaより。
「へぇ、やっぱり頭目で合ってたンだな」
永江は乱闘の中で足首を斬り飛ばされてしまったものの、一命をとりとめたようです。
「ちぇっ、仕留め損ねたか……まぁ、いいや。今度会ったら殺してやるさ」
およそ警察で発するべきでないセリフは聞き流され、さっそく取り調べが始まりました。
「で、話は聞いているぞ?向こうからピストルを撃たれたから、仕方なく反撃したんだよな?」
警察もグr……もとい味方なので、最初から無罪放免ありきで勘兵衛を誘導します。が、勘兵衛には空気が読めません。
「知らねぇ。少なくとも敵の鉄砲玉より、俺の刀の方が早く斬りつけたのは間違いねぇ」
敵に傷などいっさいつけられていない……自分の無罪よりも「喧嘩」に勝ったことの方が大事な勘兵衛は、自分の方が早く斬ったと言って譲りません。
「いや、そういう事じゃないんだ。
正当防衛を主張してくれないと勘兵衛を罪に問わねばならず、そんな事になったら「勇敢仁平」が恐ろしい……警察も必死に説得しますが、勘兵衛は頑として譲りません。
「いいや、知らねぇものは知らねぇ……(以下略)……」
かくして勘兵衛は有罪となってしまい、そのまま刑を受けたということでした。
■エピローグ
その後、日本全国で血の雨が降り、死者25名、負傷者388名が出たという凄まじい「お願い」の結果、福岡県では定数9名に対して吏党8、民党1という圧勝でした。
しかし全国では吏党137に対して民党163と無念の結果に終わり、選挙干渉の不実を糾弾された松方内閣は崩壊してしまいます。

伊藤博文。日本国の命運は、彼の双肩に託された。Wikipediaより。
迫りくる欧米列強や清国の脅威に対抗し、日本の独立を守るための海軍増強は伊藤博文(いとう ひろぶみ)内閣に受け継がれることになるのですが、勘兵衛たちの大暴れも、少しは世論喚起の一助となったのでしょうか。
※参考文献:
小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論最終章 朝鮮半島動乱す!』小学館、2019年6月
三松壮一『福岡県先賢人名辞典』葦書房、1986年
室山義正『松方正義 我に奇策あるに非ず、唯正直あるのみ』ミネルヴァ書房、2005年6月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan