「ひきこもり」と言えば、「ニート」や「パラサイト」、「親のすねかじり」など、浮かぶはネガティブワードの嵐という人も多いのではないでしょうか?
ところが、ひきこもって得意と趣味を貫いた結果、後世にまで残る素晴らしい文化を築き上げた歴史人物も存在していたので紹介いたします。
■戦いにも政治にも興味なし!
画像:写真AC
わずか8歳で後継者として選出され、13歳のときに正式に室町幕府の8代将軍となった「足利義政」は、戦いや政治には才能もヤル気もない将軍だったと言われています。
義政が貴族のような気質に育ったことについては、母方の公家「烏丸家」の屋敷で育てられたためではないかと言うのが一説です。
ただ、最初は政治に対するヤル気があったものの、妻である「日野富子」が実家である日野家とともに政治などに口出しをしてきたため意欲を喪失したという説もあります。
■天皇から怒られる
画像:写真AC
戦いや政治から目を反らし、趣味の建築などに傾倒していった義政は、天災で飢饉に苦しむ民衆を見て見ぬフリし続け、ついには天皇に怒られてしまいます。
足利義政:Wikipediaより
それでも、サラリと無視して得意なことや趣味に没頭したと言いますから、民衆としてはたまったものではありません。
実は、義政のダメダメぶりは、これだけではないのです。
■自分の「推し」と「息子」の後継者問題が火種でも「ひこもる」
義政は、妻「富子」との間になかなか子供ができなかったことから、出家して仏門に入っていた弟「義視」を9代目将軍と定めました。
しかし翌年、富子が息子「義尚」を出産。
弟の「義視」を将軍に推す義政と、息子の義尚を次期将軍にと望む富子は不仲となり、後継者問題などから「山名宗全」と「細川勝元」が対立。
11年も続き、戦国時代の幕開けとなった「応仁の乱」が起こるキッカケとなりました。
京都は火の海となり多くの死者も出ましたが、義政は知らぬ存ぜぬで、京都の東山にある別荘に逃げ込みひきこもってしまったのです。
■楽しい楽しいひきこもり生活
画像:写真AC
戦いや政治の面ではダメダメだった義政ですが、芸術のセンスは抜群でした。
好みの庭園をつくらせたり建物を建てさせたりしたほか、庭師の「善阿弥」や能役者の「音阿弥」などの文化人に金銭的援助もおこなっています。
また、得意な和歌を詠んだり、茶道や華道を発展させたりもしています。
義政にとって、それはそれは楽しいひきこもり生活だったことでしょう。
■義政のセンスが築いた東山文化
画像:写真AC
閑寂ななかに美しさや奥深さを見出そうとする「わび・さび」にも通じる義政の感性は、東山文化を築き、のちに世界からも賞賛される結果となりました。
とくに「応仁の乱」が終わってから建てられた「銀閣」は、地味でありながらもすっきりと美しいつくりだと絶賛されるほか、義政の祖父が建てた「金閣」と比較されることも。
画像:写真AC
江戸時代に「金閣寺」と比べられ、もともとの「慈照寺・観音殿」から「銀閣寺」と呼ばれるようになった経緯からも、どれだけ比較されたのかがよくわかるでしょう。
金ピカで派手な「金閣」とは対照的で地味な「銀閣」ですが、書院造という建築仕様は、畳や障子、ふすまなどを使用した現代の和風建築にも生かされています。
■義政の得意や趣味を支えたのは妻の資産?
義政が趣味に没頭できたのは、妻である「日野富子」が資産を築いたからとも言われていますが、一方では銀閣の建築にはまったくお金を出さなかったとも言われています。
ただ、関所を設置して通行税を取ったり、飢饉のときにお米を買い占めて売りさばいたりしてつくった資産は60億と言いますから、義政が少しぐらい使っても暗黙の了解だったのかもしれません。
■得意や趣味は大切に
画像:写真AC
後世にも大きな影響を与えたと言われる東山文化を築いたのは、紹介したように「戦いから逃げ、ひきこもって得意や趣味に没頭した」義政でした。
仕事や育児など、普段の慌ただしい日常のなかでいつの間にかおざなりになってしまった得意や趣味も、いつか開花することがあるかもしれません。
たまには時間をみつけて、ワクワクする気持ちを思い起こしてみてはいかがでしょうか?
ところが、ひきこもって得意と趣味を貫いた結果、後世にまで残る素晴らしい文化を築き上げた歴史人物も存在していたので紹介いたします。
■戦いにも政治にも興味なし!
画像:写真AC
わずか8歳で後継者として選出され、13歳のときに正式に室町幕府の8代将軍となった「足利義政」は、戦いや政治には才能もヤル気もない将軍だったと言われています。
義政が貴族のような気質に育ったことについては、母方の公家「烏丸家」の屋敷で育てられたためではないかと言うのが一説です。
ただ、最初は政治に対するヤル気があったものの、妻である「日野富子」が実家である日野家とともに政治などに口出しをしてきたため意欲を喪失したという説もあります。
■天皇から怒られる

画像:写真AC
戦いや政治から目を反らし、趣味の建築などに傾倒していった義政は、天災で飢饉に苦しむ民衆を見て見ぬフリし続け、ついには天皇に怒られてしまいます。

足利義政:Wikipediaより
それでも、サラリと無視して得意なことや趣味に没頭したと言いますから、民衆としてはたまったものではありません。
実は、義政のダメダメぶりは、これだけではないのです。
■自分の「推し」と「息子」の後継者問題が火種でも「ひこもる」
義政は、妻「富子」との間になかなか子供ができなかったことから、出家して仏門に入っていた弟「義視」を9代目将軍と定めました。
しかし翌年、富子が息子「義尚」を出産。
弟の「義視」を将軍に推す義政と、息子の義尚を次期将軍にと望む富子は不仲となり、後継者問題などから「山名宗全」と「細川勝元」が対立。
11年も続き、戦国時代の幕開けとなった「応仁の乱」が起こるキッカケとなりました。
京都は火の海となり多くの死者も出ましたが、義政は知らぬ存ぜぬで、京都の東山にある別荘に逃げ込みひきこもってしまったのです。
■楽しい楽しいひきこもり生活

画像:写真AC
戦いや政治の面ではダメダメだった義政ですが、芸術のセンスは抜群でした。
好みの庭園をつくらせたり建物を建てさせたりしたほか、庭師の「善阿弥」や能役者の「音阿弥」などの文化人に金銭的援助もおこなっています。
また、得意な和歌を詠んだり、茶道や華道を発展させたりもしています。
義政にとって、それはそれは楽しいひきこもり生活だったことでしょう。
■義政のセンスが築いた東山文化

画像:写真AC
閑寂ななかに美しさや奥深さを見出そうとする「わび・さび」にも通じる義政の感性は、東山文化を築き、のちに世界からも賞賛される結果となりました。
とくに「応仁の乱」が終わってから建てられた「銀閣」は、地味でありながらもすっきりと美しいつくりだと絶賛されるほか、義政の祖父が建てた「金閣」と比較されることも。

画像:写真AC
江戸時代に「金閣寺」と比べられ、もともとの「慈照寺・観音殿」から「銀閣寺」と呼ばれるようになった経緯からも、どれだけ比較されたのかがよくわかるでしょう。
金ピカで派手な「金閣」とは対照的で地味な「銀閣」ですが、書院造という建築仕様は、畳や障子、ふすまなどを使用した現代の和風建築にも生かされています。
■義政の得意や趣味を支えたのは妻の資産?
義政が趣味に没頭できたのは、妻である「日野富子」が資産を築いたからとも言われていますが、一方では銀閣の建築にはまったくお金を出さなかったとも言われています。
ただ、関所を設置して通行税を取ったり、飢饉のときにお米を買い占めて売りさばいたりしてつくった資産は60億と言いますから、義政が少しぐらい使っても暗黙の了解だったのかもしれません。
■得意や趣味は大切に

画像:写真AC
後世にも大きな影響を与えたと言われる東山文化を築いたのは、紹介したように「戦いから逃げ、ひきこもって得意や趣味に没頭した」義政でした。
仕事や育児など、普段の慌ただしい日常のなかでいつの間にかおざなりになってしまった得意や趣味も、いつか開花することがあるかもしれません。
たまには時間をみつけて、ワクワクする気持ちを思い起こしてみてはいかがでしょうか?
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