この呼び方は彼女の本名ではなく、紫とは彼女の代表作『源氏物語(げんじものがたり)』の正ヒロイン・紫の上(むらさきのうえ)、そして式部とは父親である藤原為時(ふじわらの ためとき)の官職に由来すると言われています。
紫式部。本当の名前は藤原香子だった?Wikipediaより。
※一説には藤原香子(こうし?よしこ?たかこ?)とも言われていますが、決定打となる論拠がなく、いまだに論争が続いているようです。
それはそうと、式部とはどういう役職なのでしょうか。今回はそれを紹介したいと思います。
■朝廷の人事や儀礼、人材教育を司る式部省
式部とは律令制度における8つの中央機関(八省)の一つ・式部省(しきぶしょう。のりのつかさ)に所属する職員の総称で、主な職務は朝廷における人事(叙位・任官・行賞)や宮中儀礼を司っていました。
他にも役人の養成機関である大学寮(だいがくりょう)や、官職にあぶれた(官位のみ持っている)貴族たちを管理する散位寮(さんにりょう。いわば人材補充部)を統括しており、八省の中でも中務省(なかつかさしょう)に次ぐ重要ポストです。

「あーあ、俺にも何か役目が貰えないかな」暇を持て余す散位の貴族(イメージ)。
※中務省は天皇陛下のサポートをはじめ、禁中における職務全般を担っていました。
そんな式部省の構成は以下のようになっています。
【四等官:卿・輔・丞・録】
式部卿(きょう):正四位下に相当…1名
式部大輔(たいふ):正五位下に相当…1名
式部少輔(しょうふ):従五位下に相当…1名
式部大丞(たいじょう):正六位下に相当…2名
式部少丞(しょうじょう):従六位上に相当…2名
式部大録(たいろく):正七位上に相当…2名
式部少録(しょうろく):正八位上に相当…2名
【以下、官位なし】
式部史生(ししょう):文書の上申などを担当…20名
式部書生(しょしょう):文書事務を担当…20名
式部省掌(しょうしょう):史生らの指示を使部らに伝える…2名
式部使部(つかいべ):雑用を担当…30名
式部直丁(じきてい):肉体労働を担当…5名
この中で、紫式部の父・藤原為時は式部丞ですから四等官の第三等に当たり、式部省の中でもトップ4~7に位置していたことになります。
しかし、寛和2年(986年)に第65代・花山天皇が退位されたことに伴って官職を辞すると、次代の一条天皇の御代においては官職が与えられず、しばらく散位となりました。
その後、長徳2年(996年)に従五位下へと昇進して貴族(※)となり、官職も越前守(国司)として越前国(現:福井県東部)へ赴任。
(※)広い意味では初位(八位の下)以上の官位を持てば貴族ですが、内裏への昇殿が許された五位以上の者が貴族とされていました。
最終的には正五位下の左少弁(さしょうべん。各省を指揮監督する官職)となり、長元2年(1029年)ごろに世を去ったということです。
※紫式部は寛仁3年(1019年)過ぎごろに亡くなったと言われています。
■現代も生き続ける律令制度の名残り
それから長い歳月が流れ、式部省は現代でも宮内庁の式部職(しきぶしょく)として存在しています。
宮内庁法によれば、その役職は(1)儀式に関すること(2)交際に関すること(3)雅楽に関すること(第7条)となっており、よく知られるところでは長良川の鵜飼いや新年の歌会始(うたかいはじめ)などを担当しているということです。

中央政府における人事と人材育成は他へ移管したものの、宮中儀礼に関する機能は律令時代から変わらず継承しているんですね。
ところで、ある議員秘書さんが「日本の政治家や政権はコロコロ変わるけど、官僚制度だけは律令時代から千年以上ずっと変わっていない」と言っていましたが、こういう名称も古くから伝わっているものがたくさんありますから、興味を持って見てみると面白いですよ。
※参考文献:
小口雅史 編『律令制と古代日本国家』同成社、2018年10月
阿部猛『教養の日本史 平安貴族の実像』東京堂出版、1993年3月
加藤友康 編『日本の時代史6 摂関政治と王朝文化』吉川弘文館、2002年11月
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