そして、江戸時代には「衆道(しゅうどう)」と呼ばれる、命がけの本格的なものとして武家社会に広がったのです。
こちらの【前編】もぜひご覧ください。
想う相手はただひとり…精神的つながりも重んじる命をかけた武士同士の愛「衆道」【前編】
■主君と若き小姓の愛
女形の陰間が男性と接吻する様を描いた宮川一笑による掛物絵(写真:wikipedia)
「衆道」とは、男色の中で武士同士のものを指し、「若衆道(わかしゅうどう)」を略した者です。
主君と年少の「小姓」(将軍のそばでつかえる者)の間の、男色の契りのことを指し、将軍の性愛の対象となっただけではなく主君との精神的な結びつきも重んじられていました。
江戸時代以前の男色は決して「快楽のため」だけではない?恒例の儀式や同志の契りを交わす意味も大きかった
また、組織の長につかえることで、高度な教養・戦術・戦略運営方法などを学び、成長してからは重臣となって活躍する人物も多かったそうです。
妻を残し戦場で長期間過ごす際に、女性の代わりに若い小姓を性愛の対象にしたという説もありますが、長期戦の場合は、陣中に周辺の遊女たちが集まったなどという例もあり、ただの性愛の対象とは異なっていたともいわれています。
■命がけの愛

鍋島秘書 葉隠論語抄 (写真:wikipedia)
江戸時代の佐賀藩士・山本常朝が口述した武士の心得書「葉隠(はがくれ)」(1716年)の中では、
「命を捨てるが衆道の至極也。さなければ恥に成也。然れば主に奉る命なし」とあります。
命を捨てることが「衆道」の境地で、さもなければ恥である……
ただの男性間の性愛だけではなく命がけの忠義の心も説いているのですね。
ただし、主従関係間だけではなく「同輩関係」の関係も見られるようになりました。
「葉隠」の中には、
情は一生一人のもの也。さなければ、野郎・かげまに同く、へらはる女にひとし。
念友は五年程試し志を見届たらば、此方よりも頼むべし。うわ気者は根に不入、後は見はなすもの也。
互に命を捨る後見なれば、能々性根を見届也。くねる者あらば「障ある」と云て手強く振切べし。「障は」とあらば、「夫は命の内に申べしや」と云て、
むたいに申さば、腹立、尚無理ならば切捨べし。又、男の方は若衆の心底を見届る事前に同じ。命を擲て五年はまれば、叶はぬと云事なし。
とあります。
つまり、衆道を結んだ武士同士は、命がけで助け合う契りを結ぶもので、
「互いに想う相手は一生にただひとり」
「相手を何度も取り替えるなどは言語道断」
「5年は付き合ってみて、よく相手の人間性を見極めるべき」
としています。
もし、相手は信用できない浮気者であれば付き合う価値はないので別れるべきで、怒鳴ってもまとわりついてくるのであれば切り捨てろと、はっきりと「誠実な愛」が大切であることを説いているのです。

若衆と横になる男性が別の人物と会話する場面を描いた作品。
■新撰組の中でも流行った

近藤勇(国立国会図書館蔵)(写真:wikipedia)
江戸時代の中頃になると、忠義の心よりも男色の相手との関係を大切にしたり美少年をめぐる刃傷事件などの諍いが発生し、徐々に衆道は問題視され江戸の後半になると次第に目立たなくなっていきました。
しかしながら、武士道精神と関わる男同士の情愛は、いろいろな形で続き、薩摩藩の衆道は幕末維新まで続いたといわれています。
明治治元年(1864年)、新撰組の近藤勇が友人の中島次郎兵衛に送った書簡には「局内で男色が流行っている」と記していたそうです。
■明治維新の頃からさまざまな理由で衰退

袋井宿を描いた春画(写真:wikipedia)
いにしえの時から、貴族、寺院、そして戦国武将、庶民、武士へと広がった男色。
「衆道」と呼ばれる武士同士の義兄弟的関係の男色は、明治維新の頃から同性愛を悪とする西洋のキリスト教の広まりや、遊郭が手頃に遊べる場所になったこと、都市部の女性人口が大幅に増加したなどの理由で、急速に衰退したといわれています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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