ワンマンが多かった戦国時代において、信玄は家臣たちの意見を取り入れる合議制を行った大名でした。この【前編】では、信玄が実践した合議制と、それにより構築された戦国最強の軍団についてお話ししましょう。
■戦国大名としては珍しかった合議制を採用
合戦の天才的なイメージが強い信玄だが、家臣たちの意見によく耳を傾けた武将だった。(写真:wikipedia)
武田信玄は、多くの家臣たちを集めて合議(今でいう会議)を盛んに行ったことで知られています。これは、戦国時代では珍しいことでした。
当時は、合戦や内政などに関わる重要な決断を行うのは、戦国大名単独か、少数の側近のみの意見を聞き、決定していました。
その理由として、戦国大名の複雑な家臣団の構成にありました。家臣は、代々にわたりその大名に仕えていた者だけでなく、戦いの過程において服従した者たちも多く含まれていたのです。
中には、隙あらば裏切りの機会を狙っている者や、敵から送り込まれた間者(スパイ)などもいたことが考えられます。そうした状況で、多くの家臣たちを交えて重要な事柄を話し合うのは、国の存続にもかかわる、とても危険な行為であったのです。
■苦い経験を活かして合議制を採用

重臣たちのクーデターで駿河今川家に追放された信玄の父信虎。(写真:wikipedia)
危険を冒してまでも、信玄が家臣たちの意見を尊重する合議制を採用したのには、家督相続時の苦い経験があったからでした。
信玄が誕生した1521(大永元)年頃は、甲斐国主でありながら武田家の力は盤石とはいえませんでした。信玄の父・信虎に対する家臣たちの忠誠心は薄く、家臣たちも内紛が絶えないという状況だったようです。信虎は強硬策に出て、自分の意に沿わない者たちを容赦なく処断したため、多くの家臣たちから反発を買っていました。
1541(天文10)年、ついに重臣たちを中心に信虎追放というクーデターが勃発します。そして、信玄を新たな国主に祭り上げたのです。こうした状況ですから、家臣団にまとまりがあるわけがなく、若き国主信玄は家臣たちの掌握に苦労し続けました。
その結果、家臣団を束ねるには、合議制を行い彼らの言い分に耳を傾けること。そして、領土拡大により、彼らの所領を増やし、保証することという結論にたどり着いたのです。

合議により採用した意見は、川中島などの合戦に多く用いられた。(写真:wikipedia)
■合議制が信頼感・連帯感を生んだ

武田信玄の旗印「風林火山。(写真:wikipedia)
合議が行われる際に、信玄は出席した家臣全員に意見を述べるように促したとされます。そして、家臣の意見を取り入れることにより戦いで勝てたり、内政などの問題の解決に至った時、信玄は家臣の功績を第一とし褒め称え、しっかりとした報酬などで報いました。
武田家臣団と言えば、江戸時代の講談などで特に評価が高い武将の総称「武田二十四将」が有名です。しかし、こうした信玄の姿に、二十四将だけでなく多くの家臣たちはますます奮い立ったことでしょう。
さらに、武田家という組織の運営に、自分たちが主体的に参加しているという意識とともに、主君信玄に対する信頼感や連帯感が強まったのはいうまでもないことでした。
このようにして、『風林火山』の旗のもと、信玄の下知に従い、「はやきこと風のごとく」「しずかなることはやしのごとく」「侵略すること火のごとく」「動かざること山のごとし」のような際立った進退を誇る、戦国最強の武田軍団が構築されていったのです。
【後編】に続く……
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