最近の若者言葉で、「盛る」というのがありますね。
「プリクラめっちゃ盛れた」や「話盛ってるでしょ」など、実物よりもより美しく大げさに見せたりする意味で「盛る」という言葉が使われています。
実はこの言葉には、日本人ならではの神聖な意味が込められている上に、その独特のニュアンスは今挙げた若者言葉にもちゃんと受け継がれているのです。
今回は「盛る」という言葉の語源と、その歴史的なニュアンスを探ってみたいと思います。
さて、「盛る」と言えば、まず思いつくのは食事でご飯やおかずを「盛る」という使い方でしょう。「盛り付ける」「山盛り」「特盛り」などなど……。
実際、大昔から「盛る」は食べ物に関係する言葉だったようです。
古くは『万葉集」の有間皇子(ありまのみこ)による歌で「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」というものがあります。「家にいると器によそうご飯を、今は旅の途中なので椎の葉に盛ります」という意味だそうです。これは、陰謀がばれて捕まった有間皇子が、護送中に詠んだ歌なのだとか。
では「盛」という漢字の語源はどうかというと、これも食べ物に関係しています。
漢和辞典で調べてみると、「盛」という漢字は、ざっくり言えば「皿」と「まさかりと釘を上から見た形」の組み合わせです。それが展開されて「皿を満たす」というニュアンスを含む「盛り付ける」という意味になっていったようです。
「盛る」という言葉には、器に食べ物を入れる意味だけではなく、「満たす」というニュアンスが最初から含まれていたんですね。
ちなみに、「盛る」を辞書で引くと、「物を容器にいっぱいにする」「高く積み上げる」という意味が含まれていることが分かります。
さて、昔の人にとって、器を食べ物で満たすことは豊かな実りの象徴であり、とても神聖なことでした。ここから、「盛」の文字は「盛ん(さかん)」という言葉に発展し、宗教的な意味も含むようになっていきます。
宗教的と書くと大げさですが、つまりは、自然の恵みに対する感謝の念ということです。
実際、広辞苑で「盛物(もりもの)」という言葉を引くと、
①器に盛って膳に供える物。
②仏前の菓子・果物などの供物。
という意味があることが確認できます。
盛物という言葉は、現代に生きる私たちにはちょっと耳慣れない言葉ですが、そういえば今でも、葬儀などでは「盛篭(もりかご)」という供物を祭壇に飾ったりしますね。
というわけで、昔の人にとって「盛る」とは器を食べ物でいっぱいに満たすことでした。この時、器に「盛られて」いるのは、ただのモノとしての食べ物ではありません。そこには、豊穣な自然の恵みのパワーや、神様へのお供えに匹敵する神聖さが「盛られて」いたのです。
■昔の人は、食べ物を高~く盛っていた
さて、先ほど「盛る」という言葉を辞書で引くと「高く盛り付ける」という意味があることが分かると書きましたが、これも日本人の食にとって重要なポイントのひとつです。
有名な『魏志倭人伝』には、「(倭人は) 食飲するに籩豆を用い手食す」とあります。「籩豆」の「籩」は竹製の高坏で「豆」は木製の高坏のことだとされています(※諸説あり)。どちらも高坏なのです。
飲食物を「高く」「盛る」ことは、日本人にとってとても古い習慣だということが、このことから分かります。
先に、「盛る」にはご飯を神様に捧げる意味も含んでいると書きましたが、神様に供える「神饌(しんせん)」には、食べ物を高く盛り付ける「高盛り」にするものが多くあります。
また平安時代に正月に行われたとされる「歯固め」の儀式で使われたお供え物も、すべて「高盛り」です。『類聚雑要抄』によれば、この儀式では六本の高坏の上に皿を置き、そこにイノシシ・シカの肉、タイ・コイなどを山盛りにしたそうです。

京都芸術大学「瓜生通信 梅の花びらを模ったお餅で新年を寿ぐ ―御菱葩(川端道喜)[京の和菓子探訪 #8]より
さらに時代が下り、鎌倉時代の初期のものとされる『病草紙』の中の「歯の揺らぐ男」では平安末期の食事風景が描かれています。

Wikipedia『病草紙』より「歯の揺らぐ男」
これは歯の病気で悩む男の姿を描いたものですが、彼の前に置かれた四角の膳には、「高盛り」にされたご飯が見受けられます。他の食材も小高く盛られていますね。これが、当時の平均的な食事内容だったのでしょう。
また、室町時代のものとみられる『酒飯論』には僧たちの食事風景が描かれています。
さらに鎌倉時代や戦国時代の武士たちの食事風景を描いた絵でも、ご飯やそれ以外の食べ物が「高盛り」「山盛り」にされている例はたくさんあります。
そういえば、これは余談めきますが、テレビアニメ『まんが日本昔ばなし』でも、茶碗に白米がとんでもない高さで盛られた場面がよく登場しましたね。ちょっと大げさだったとはいえ、あの描き方には、実はちゃんと歴史的な根拠があったことが分かります。
■ご飯を「高く盛る」「山盛りにする」理由
それにしても、なぜ日本人はこれほどまでにご飯を「高盛り」あるいは「山盛り」にして食べてきたのでしょうか?
先ほど述べたように、食べ物を「盛る」行為は、豊穣な自然の恵みのパワーや、神様へのお供えに匹敵する神聖さを「盛る」ことでもありました。
これを、さらに「高く」「山のように」盛るのですから、昔の人がそこにどんな気持ちを込めていたのか、なんとなく想像がつきますね。
そういえば、昔の日本人にとっては「山」も神聖な存在でした。祭りなどで神霊を招くための設置物を「作り山」と呼んでいましたし、今でも祭礼での出し物を「山車(だし)」と書きます。ご飯を「山盛りにする」ことは、こうした神聖なイメージと無関係ではなかったはずです。

さらに付け加えると、「盛る」と同じような言葉に、ご飯を「よそう」というのがありますね。これの語源は「ご飯をよそおう」で、漢字で書くと「装う」「粧う」となります。
このような語源をたどっていくと、昔の人にとってご飯を器に入れることは、高~く積み上げて、美しく装って、そこに神様のパワーを込めることと繋がっていたと思われます。
もちろん、現実としては、ご飯は空腹を満たして疲労を回復させるためのものです。
ただ、昔の日本人にとって、体力の衰えや病気などは、魂の衰え、生気の衰えでもありました。そうしたものを回復させ、生命力を取り戻すために、大晦日や節分などに宗教的儀式を行っていたことは前にも書いたことがあります。
大晦日・お正月・節分・お盆をつらぬく日本文化の「根っこ」とは?【前編】
ですので、高盛り・山盛りにした食事には、衰退した生命力を取り戻す神聖な力がある――というイメージを、昔の日本人は抱いていたのでしょう。
食べ物から神聖な力を得るという考え方は、昔は珍しいものではありませんでした。例えばお正月の鏡餅は「鏡開き」をして食べますが、もともとは、そこに宿った神聖な力を食べることで、神様のパワーを分けてもらうという意味がありました。
■あながち迷信でもない?食べ物の聖なる力
こうして考えていくと、「盛る」という言葉には、現代に生きる私たちが想像するよりもずっと神聖なニュアンスが含まれていたことが分かります。
若者言葉と思われている「写真を盛る」「話を盛る」などの言い方も、実は古来の日本人の心性をしっかり受け継いだものなのです。
もちろん、科学文明の中で生きる私たちは、「高盛りにしたご飯に聖なる力が宿っている」なんて言われても信じないでしょう。
だけど、「何かを信じて食事を採る」という構図そのものは、昔も今も変わっていないのではないかと思います。
今でも私たちは、疲労回復、健康維持、肉体改造、美容、若返りなどの効果を期待したり信じたりしながら、食材を選んでみたり健康食品やサプリメントを口にしたりします。
もちろんそれには多くの場合、科学的根拠があるのですが、効果には個人差があったり、情報の真偽が怪しげだったりすることもあるでしょう。
それでも私たちは、効くか効かないかはさておいて、そういった食べ物に期待を抱きながら摂取します。
昔の人が、目に見えない聖なるものを信じながら食事を採っていたのと、大きな違いはないのではないでしょうか?
参考資料
- 永山久夫『イラスト版たべもの日本史』(1998年・河出書房新社)
- manapedia・「万葉集『家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る』現代語訳と品詞分解・枕詞」
- 京都芸術大学「瓜生通信 梅の花びらを模ったお餅で新年を寿ぐ ―御菱葩(川端道喜)[京の和菓子探訪 #8]
- フランス国立図書館所蔵 酒飯論絵巻デジタルデータ
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan