江戸中期に発生した「江島生島事件(えじまいくしまじけん)」は、大奥史上有数の大規模粛清事件となった。

今回は【前編】に引き続き、江島生島事件についてご紹介する。

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門限を破り27年間の幽閉および関係者1500人が処罰。江戸時代に起きた「江島生島事件」【前編】

■事件後の処罰

事件は評定所によって徹底的に調べられ裁定が下された。

【江島】
評定所は江島に島流しの裁定を下したが、月光院の減刑嘆願により信濃高遠藩(現在の長野県伊))の内藤清枚の元にお預けとされた。江島は外部と完全に隔離された屋敷に幽閉され、食事や身なりなど、すべてを厳しく制限された生活を送った。幽閉生活は実に27年間に及んだ。

関係者も厳しい処罰の対象となり、旗本の異母兄・白井平右衛門勝昌は斬首、弟の豊島常慶は重追放の処分を受けた。江島と同行した女中陣や関連を疑われるものを合わせると、1500名程度が処罰の対象とされたという。

【生島】
生島自身は三宅島に流罪。山村座座元の五代目山村長太夫も伊豆大島への遠島となり、山村座は廃座。72年間の歴史に幕を閉じた。

江戸中の芝居小屋も風紀を乱すという理由で処罰の巻き添えを食い、改築や営業の短縮などの憂き目にあった。事件の連座者は最終的に50名近くに及んだという。


門限を破り27年間の幽閉および関係者1500人が処罰。江戸時...の画像はこちら >>


江戸の芝居見物客(Wikipediaより)

■江島と生島の関係

2名の間には密会・密通説が流れた。2人は激しい拷問にかけられ、生島は関係を自白したが、江島は最後まで否認を貫き自白することはなかったという。

結果的に2人の間の男女関係は証明されることはなく、真相はわからない。

■陰謀説

江島生島事件に関しては様々な陰謀説がある。当時の大奥の門限は一般的に16時とされていたが、将軍や御台所、側室の名代としての外出は18時が門限とされており、江島自身は門限を破っていなかった可能性がある。(お付きの女中が門限を過ぎていた事を理由に咎められた)

江島への嫌疑は強引という見方もあり、江島や月光院勢力に対して反感を持っていた幕府上層部や、家宣の正室・天英院勢力による陰謀説も囁かれているが証拠はない。

門限を破り27年間の幽閉および関係者1500人が処罰。江戸時代に起きた「江島生島事件」【後編】


■その後

江島は1723年に赦免が認められ、以降は屋敷の周辺地域における外出は認められたという。1741年に死亡。享年61。大奥での出来事は生涯口にしなかったという。

生島は1742年に赦免され、江戸へ帰還。翌年73歳で没した。


大奥と歌舞伎の世界で栄華を極めた2人だったが、たった一度の不祥事で人生を大きく歪められた末の最後だった。

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