いたずら心が悲劇へ。12歳で亡くなった四条天皇の運命と歴史のその後が壮絶すぎる
1221年に起こった承久の乱で、当時天皇だった後鳥羽上皇率いる政府軍と鎌倉幕府執権北条義時率いる幕府軍の間で戦が勃発しました。
結果は政府軍の敗戦で権力は幕府へと集中し、後鳥羽上皇は隠岐へと島流しされました。承久の乱後、後鳥羽上皇に変わって天皇に即位した後堀河天皇ですが、生まれつき体が病弱だったため、1232年に当時2歳である四条天皇を第82代天皇とし、即位させました。
四条天皇は、近習の者や女官たちを驚かせ、楽しむようなイタズラ好きな少年でした。
イタズラ好きのまま成長した四条天皇は、ある日、宮廷の女房たちを驚かせようと、廊下に滑る石を並べ、仕掛けがうまくいくかチェックしていました。
その途中、四条天皇は自分が設置した滑る石に足元をすくわれ転倒、頭を強打し、死亡してしまいました。このとき、四条天皇は齢12歳でした。
■関ヶ原の戦いに巻き込まれただけの宇喜多秀家
武将・宇喜多秀家(うきたひでいえ)は子供のころから、豊臣秀吉の気まぐれな女好きによって数奇な運命を歩まされます。
秀家は、母親が美人ということから秀吉に気に入られ出世しました。秀吉が織田信長に仲介し、わずか10歳で遺領相続を許されるなど、当時では異例のことでした。
秀家は大人になり、秀吉から備中東部から美作・備前の領地を任され、57万石の大大名になるまで上り詰めました。
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そして秀吉の死後、徳川家康と石田三成の権力争いが勃発します。その関ヶ原の戦いに巻き込まれ、敗戦してしまった秀家は、八丈島に流されてしまいました。
関ヶ原の戦いを首謀したのは石田三成ではなく、宇喜多秀家だったのではという諸説もあります。
秀家は、八丈島に流されたあと90歳くらいまで生きたといわれています。晩年は「お米が食べたい」と妻の実家である前田家に手紙を送ってまで頼っていたようで、妻の実家では武士の恥さらしとよばれていたのだとか。
■戦国時代のボンバーマン松永久秀
戦国大名・松永久秀(まつなが ひさひで)は素行が悪く、悪行多いことで知られています。
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そんな松永も、自身が仕える織田信長には従順で、名物といわれていた茶器や刀剣の多くを信長に贈与していました。
信長も松永の実力は気に入っており、徳川家康に紹介したようです。
しかし家康は、松永が仕えていた主人を裏切ったり、奈良の大仏を燃やしたりしていることを重く考えており「まったく油断のならいない人よ」と本人に言い放ったそうです。
このときの家康の予想は的中し、松永は信長に対して謀反を起こし、裏切ります。
しかし、松永をあっけなく包囲した信長は名茶器である「平蜘蛛」を渡せば助命すると勧告しますが、松永はそれに応じることはありませんでした。
そして、名茶器「平蜘蛛」に大量の火薬詰込み、信長に平蜘蛛も自らの命も渡さない、というようなセリフを言い放ち、自ら爆死しました。
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