江戸時代から続く東京の地名の由来を一部ですが、2つの分類でざっとご紹介します。
■知っている人から意外な人まで~人名編
八重洲 オランダ人の朱印船貿易家、ヤン・ヨースデンにちなみます。
慶長五年(1600)、ウィリアム・アダムズ(のちの三浦按針)らとともに航海中、豊後国(大分県)に漂着し、徳川家康に仕えて朱印船貿易に従事しました。日本名は耶揚子(やようす)といい、その名前がなまって住んでいた場所が八重洲河岸と呼ばれました。今は埋め立てられていますが八重洲は海に近かったのです。
八重洲地下街にあるヤン・ヨーステン記念像(Wikipediaより)
紀尾井町 紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家それぞれの中屋敷があったことから、三家から一文字ずつ取って名付けられました。明治以降は政府用地などになり、高級ホテルや大学の一部となっています。また、清水谷公園には暗殺された大久保利通の哀悼碑もあります。
神保町

『御府内沿革図書、御府内沿革図書. 第一篇上』(国立国会図書館より)
武家屋敷が多く立ち並ぶ場所で、元禄年間に旗本の神保長治が名前の由来といわれています。神保長治は書院番から昇進し元禄2年(1689年)に日光山の検分を命じられ最終的には正徳2年(1712年)に佐渡奉行となった人物です。
有楽町

織田長益像(1622年、正伝永源院蔵、Wikipediaより)
有楽町の名は織田信長の弟で茶人としても名高い織田有楽斎が屋敷を構えたことに由来します。屋敷跡は有楽原といわれ、明治期に有楽町と名付けられました。
■読んで字のごとく~職業編
紺屋町 江戸時代、庶民の服といえば藍染。
この藍の買い付けを許された紺屋頭の土屋五郎衛門が支配していた町で、染物職人が多く住むことから名付けられました。
鍛治町 江戸幕府お抱えの鍛冶方棟梁だった高井伊織が屋敷を構えていたことに由来します。鍛冶職人だけではなく、多くの刃物系御用職人や商品を扱う卸業者も集まりました。
隼町 大の鷹狩りが好きだったという徳川家康。その家康が連れてきた鷹匠たちの屋敷があり、主に隼(はやぶさ)を使うことからこの名が付きました。鷹匠は江戸時代、幕府や諸藩に設けられた一つの職名であり、鷹の飼養や調教など一切を取り仕切っていました。
今は町名の面影のない街並みが多いですが、古地図を片手にめぐるのも楽しいかもしれませんね。
参考:『古地図ライブラリー別冊 切絵図・現代図で歩く もち歩き 江戸東京散歩』、千代田区ホームページなど
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