阿倍仲麻呂の性格や活躍ぶりは意外と知られていませんが、実は、とても興味深い人物です。
阿倍仲麻呂の活躍
698年、大和国で産まれた阿倍仲麻呂は、幼少の頃より秀才として有名でした。その秀才ぶりを買われて、717年には多治比県守らと一緒に「遣唐使」として唐へ派遣されます。
そして、唐でも科挙(現在の官僚試験のようなもの)に合格し、官僚職へ推薦されるなど秀才ぶりを発揮。出世していきました。
阿倍仲麻呂の性格
733年に次の遣唐使が唐へ派遣されることになり、阿倍仲麻呂は日本へ帰国するように促されます。しかし、唐での仕事が残っているからと、義理堅い阿倍仲麻呂は帰国を断ったのでした。
運が悪い阿倍仲麻呂
翌年には阿倍仲麻呂も帰国する準備が整い、唐を出港します。
この時、出港した船4隻のうち3隻は無事に帰国しましたが、阿倍仲麻呂を乗せた一隻は船旅の途中で嵐に遭遇し、なんと難破してしまうのです。
難破した阿倍仲麻呂のその後
阿倍仲麻呂を乗せた難破船は、翌日になっても日本へ帰国することはありませんでした。
そのことから、親友であった李白も「明月帰らず 碧海に沈む」と阿部仲麻呂を月にたとえた詩を詠い、阿倍仲麻呂の死を悼みました。
しかし、阿倍仲麻呂は遥か南方にあるベトナムで漂着し、なんと生存していたのです。
船は大破し、同船していた100人近い仲間たちも現地の住人に襲われてしまうなど大変な状況に見舞われたものの、阿倍仲麻呂を含む10名ほどは無事でした。
その後、阿倍仲麻呂は日本への帰国を諦め、唐への帰国を果たします。そして、再び唐で仕事に励み770年にその生涯を終えました。
唐に居ながら文明の発展に貢献した阿倍仲麻呂

運悪く日本には帰れなかった阿倍仲麻呂ですが、唐では出世し、華やかな功績を残して生涯を終えています。
日本では、唐での功績や活躍ぶりからすれば注目される機会は少ないですが、多くのことを大和国に伝え、文明の発展に貢献した1人であることは間違いありません。
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