日本史の時代区分の一つである「古墳時代」。大王家や有力豪族を始めとする人々が墳墓として大小さまざまな古墳を造営した時代のことを指します。


しかし、古墳時代の始まる時期は弥生時代末期と重なるため、はっきりした年代が定められていません。そんな古墳時代の始まりのカギを握るのが今回ご紹介する纏向古墳群の6基の古墳。

後編では、6基の古墳が全国に与えた影響とそれぞれの古墳についてお話ししましょう。

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古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【前編】

■全国に見られる纏向型前方後円墳

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 JR巻向駅前に保存されている纏向遺跡の大型建物群跡。弥生時代最大級の4棟の建物が中心軸を東西の一直線上に揃えて並んでいた。(写真:Wikipedia)

現在の考古学的な定説になっているのが、3世紀中頃~後半に、最初の前方後円墳として纏向に箸墓(箸中山)古墳が築造され、それがヤマト政権の勢力拡大とともに、全国に広がっていったというものです。

各地の有力な豪族は、ヤマト政権の大王に服従する証として、前方後円墳を築くことを許されたとされます。

しかし、それに遡ること約半世紀前(3世前半~3世後半)に、纏向型前方後円墳が北は福島県から南は鹿児島県に造営されていたのです。

この事実は、ヤマト政権が全国に勢力を拡大する前に、それに先行する纏向にあった政権がほぼヤマト政権同様の地域に勢力を伸ばしていたことになります。

古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【後編】


 岡山県岡山市にある矢藤治山(やとうじやま)古墳。全長約35mの纏向型前方後円墳とされる。(写真:Wikipedia)

もちろん、纏向型前方後円墳と箸墓(箸中山)型前方後円墳は、同じ纏向遺跡内にあり、纏向の地を起源とすることは疑いようはありません。


そうなると、纏向には全国に影響を及ぼすような大きな力を持った政権が、弥生時代末期(3世紀前半~中頃)・古墳時代前期(3世紀中頃~3世後半)という2つの時代において、継続して存在していたことを物語っていることになるのです。

纏向に存在したこの2つの政権について、確かなことを言えないのが現状です。しかし、もし、纏向に邪馬台国があったのであれば、前者は邪馬台国(卑弥呼・台与王朝)、後者は初代ヤマト政権(崇神王朝)と考えることも可能なのではないでしょうか。

ちなみに、纏向遺跡では、発掘調査のたびに多くの重要な遺構が見つかっていますが、最も注目を集めたのが2009年に発見された4棟の大型建物群でした。

古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【後編】


 纏向遺跡大型建物群の遺構配置。建物E・建物D・建物C・建物Bの4棟が一直線上に配置されている。(写真:現地案内板)

この遺構は3世前半~中頃のものと推定されています。この時期に、これだけの規模の建物は全国的に類を見ません。おそらくは、纏向の中心的な施設であったことは間違いなく、卑弥呼の宮殿ではとの説も提唱されています。

纏向型前方後円墳が造営されたと同時期に、この大型建物群も存在していたのです。この建物を利用した人物たちと、纏向型前方後円墳3基の被葬者との関係も興味深いものがあると思いますが、いかがでしょうか。

古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【後編】


 大型建物の内、主殿と考えられる建物Dの復元図。
[神戸大学建築士研究室 黒田龍二復元案](写真:桜井市埋蔵文化センター現地説明会資料より抜粋)

纏向遺跡は、今後も長い時間をかけて発掘調査が行われます。日本古代史の謎を解き明かすような発見があるかもしれません。大いに期待したいものですね。

それでは、纏向古墳群の6基の古墳についてその概要を見ていきましょう。

古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【後編】


 纏向の遺跡配置図。河川や微高地ごとに、古墳や遺跡が集まっているのが分かる。(写真:現地案内板)

■纏向石塚古墳

古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【後編】


 纏向石塚古墳の墳丘現状。(写真:T.TAKANO)

●墳形:纏向型前方後円墳
●全長:約93メートル
●築造年代:約210年頃
●主な出土品:朱塗り鶏形木製品、孤文円板、木柱、土師器など
●被葬者: 不明

古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【後編】


 纏向石塚古墳の墳丘平面図。[現地案内板より](写真:T.TAKANO)

西暦180年まで遡る纏向1類土器を出土したことから、3世紀前半の築造と考えられる最古級の前方後円墳(纏向型前方後円墳)です。

副葬品の孤文円板は、吉備地方の特殊器台につけられた特殊な文様と同じ文様が刻まれており、吉備との関係が考えられます。また、朱に塗られた鶏形木製品は、孤文円板とともに葬送儀礼に使われたのではないかと推測されています。

古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【後編】


 墳丘くびれ部から出土した孤文円板。
吉備地方との関連性がうかがえる。(イラスト:T.TAKANO)

■纏向矢塚古墳

古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【後編】


 纏向矢塚古墳の墳丘現状。(写真:T.TAKANO)

●墳形:纏向型前方後円墳
●全長:約96メートル
●築造年代:約230~290年頃
●主な出土品:土器
●被葬者: 不明

古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【後編】


 纏向矢塚古墳の墳丘平面図。[現地案内板より](写真:T.TAKANO)

2007年に桜井市教育委員会により、前方部の調査が行われ纏向型前方後円墳と確認されました。後円部頂には板石が散乱していることから、板石積竪穴石室の存在が推測されます。今後の発掘結果が待たれる古墳です。

■ホケノ山古墳

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 ホケノ山古墳の墳丘現状。(写真:T.TAKANO)

●墳形:纏向型前方後円墳
●全長:約90メートル
●築造年代:約250年頃
●主な出土品:画文帯神獣鏡、鉄鏃、銅鏃、素環頭太刀、大型壺など
●被葬者:不明[但し、豊鍬入姫命(大神神社)、卑弥呼、台与など]

古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【後編】


 纏向矢塚古墳の墳丘平面図。[現地案内板より](写真:T.TAKANO)

箸墓(箸中山)古墳の東側250メートルの場所に位置します。後円部には主被葬者を埋葬したと考えられる規模の大きな積石木槨(幅2.7メートル・長さ7メートル)があります。

その中には、埋葬施設を覆うように特異な切妻造りの建物が設けられていました。極端な言い方をすると、神社の社殿や宮殿の主殿を思わせるような建物のミニチュア版が納められていたような感じです。


古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【後編】


 墳丘内に切妻造の覆屋を造り、石積みで囲むという特異な形の主葬部。(イラスト:T.ERIKO)

埋葬施設は、この他にも前方部に葺石を壊して埋葬した箱型木棺があり、伊予あるいは讃岐で作られたと考えられる大きな土器が供献されています。また、後円部には墳丘を再利用して作られた6世末頃の横穴式石室があります。

古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【後編】


 復元された前方部埋葬施設。(写真:T.TAKANO)

数多い副葬品の中で注目されるのが、少なくとも2面出土している画文帯神獣鏡です。この鏡は、卑弥呼が魏から下賜された鏡としては年代的に三角縁神獣鏡よりふさわしいという説があります。西暦250年頃といわれる築造年代や副葬品から、邪馬台国論争に一石を投じる貴重な古墳の一つです。

■纏向勝山古墳

古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【後編】


 纏向勝山古墳の墳丘現状。(写真:T.TAKANO)

●墳形:箸墓型前方後円墳
●全長:約100メートル
●築造年代:約250~270年頃
●主な出土品:板材(一部朱塗り)、U字型木製品、木製刀剣把手など
●被葬者:不明

古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【後編】


 纏向勝山古墳の墳丘平面図。[現地案内板より](写真:T.TAKANO)

最も古い年代を示す出土品として、周濠くびれ部より多量にヒノキ板材(一部朱塗り)が出土し、年輪年代測定をしたところ210年頃と測定されました。

土器による編年は、北側周濠内に投棄されたものが270年頃、後円部西周濠外縁内のものが180年頃と、約1世紀の差があります。しかし、墳形が箸墓型前方後円墳であることから、250年頃に落ち着く可能性が高いと思われます。


築造年代もさることながら、注目されるのがヒノキ板材です。ヒノキ板材は、葬送儀礼のために後円部に建てられていた建築物の可能性があります。儀礼後に壊され周濠に破棄されたと推測されますが、問題は一部が朱色であったことです。

もし、この板材が建物であったなら、朱色の建物は飛鳥時代以降の寺院建設からといわれる従来の説を覆すものになるからです。勝山古墳は、後円部など未調査の部分が多く、謎の多くは今後の調査の成果に期待されます。

■東田大塚古墳

古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【後編】


 東田大塚古墳の墳丘現状。(写真:T.TAKANO)

●墳形:箸墓型前方後円墳
●全長:約120メートル
●築造年代:約270~290年頃
●主な出土品:土器、木製品など
●被葬者(推定):不明

古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【後編】


 東田大塚古墳の墳丘平面図。[現地案内板より](写真:T.TAKANO)

従来は、全長約100メートル弱の纏向型前方後円墳と見られていましたが、2007年の前方部の調査により、全長約120メートルの箸墓(箸中山)型前方後円墳とされました。

周濠内などから出土する土器は、270年に編年されるため、築造年代は3世紀後半に比定されます。

■箸墓(箸中山)古墳

古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【後編】


 箸墓(箸中山)古墳の墳丘現状。(写真:T.TAKANO)

●墳形:箸墓型前方後円墳
●全長:約278メートル
●築造年代:約250~290年頃
●主な副葬品:壺型土器、特殊器台、土器、木製鐙など
●被葬者:倭迹迹日百襲姫命、卑弥呼、台与など

古墳時代はここから始まった?纏向古墳群(奈良県桜井市)にある6基の前方後円墳【後編】


 上空から見た箸墓(箸中山)古墳。(写真:Wikipedia)

最古の前方後円墳と見られ、卑弥呼(没年約248年)の墓と提唱する研究者が多い古墳です。
しかし、宮内庁によって倭迹迹日百襲姫命の墓に指定されているため、主要部の本格的な発掘調査は行われていません。

築造年代は、後円部墳頂の壺型土器と特殊器台、前方部の特殊器台が宮内庁に所蔵されていることから、280~290年頃の築造と考えられています。

一方で、出土した土器に付着した炭化物の放射性炭素年代測定を行ったところ250年頃との測定結果が出ています。

墳形の特徴は大きく撥型に広がった前方部にあり、箸墓(箸中山)古墳を起源として、前方後円墳が全国に広がっていったことは考古学的な定説と考えて問題ないでしょう。

いづれにせよ、弥生時代末期(邪馬台国)と古墳時代(ヤマト政権)との関係を解き明かすカギを握る重要な古墳であることは間違いなく、今後の詳細な調査が期待されます。

長い文章にもかかわらず、2回にわたり最後までお読みいただきありがとうございました。

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