時は幕末、尊王攘夷の志士たちが幕府の大老・井伊直弼(いい なおすけ)によって葬り去られた「安政の大獄(あんせいのたいごく)」。その陰では多くの腹心たちが暗躍しており、中に一人の女性がいました。
今回は幕末の女スパイ・村山たかのエピソードを紹介したいと思います。
■20歳で故郷を飛び出し……
多賀大社。Wikipedia(撮影:Saigen Jiro氏)より。
村山たかは江戸時代後期の文化6年(1809年)、近江国は多賀大社(たがたいしゃ。現:滋賀県多賀町)にあった尊勝院(そんしょういん)の娘として誕生しました。
尊勝院とは神宮寺(神社境内の寺院)の一つで、そこに在籍していた僧侶の誰かが父親ということなのでしょう(母親は不明、近郷あるいは檀家の女性かも知れません)。
しかし僧侶が子をなしては外聞が悪いからか、生後間もなく彦根(現:滋賀県彦根市)に住む寺侍(寺社に奉公する武士)の村山家へ養女として預けられました。
「お多賀さん(多賀大社の愛称)にあやかって、この子は『たか』と名づけよう(※諸説あり)」
養親たちの躾が良かったようで、文政9年(1826年)、18歳となった『たか』は彦根藩主・井伊直亮(いい なおあき)の侍女として奉公に出ました。
彦根藩第14代藩主・井伊直亮。Wikipediaより。
「お城で真面目に勤めれば、きっといいお相手が見つかるぞ。良かった良かった……」
養親たちは『たか』を見送りながら、その幸せを願ったことでしょうが、奉公に出てから2年後の文政11年(1828年)、どういうわけか『たか』はお城勤めを辞めてしまい、故郷を飛び出してしまいます。
「あの子にいったい何があって、どこへ行ってしまったのでしょう……」
「とにかく今は、無事でさえいてくれればいいが……」
行方をくらました『たか』が再び故郷へ戻って来たのは、それから3年の歳月を経た天保2年(1831年)のことでした。
■我が子を抱えて出戻って……
「……名前は、常太郎(じょうたろう)です」
『たか』が抱いていたのは、生まれて間もない彼女の息子。聞けば故郷を飛び出してから京都の祇園で芸妓をしており、贔屓にしてくれた住職との間に子を授かったものの、私生児として認知されませんでした。
『たか』の芸妓時代(イメージ)。
「そんな子は知らん!また、そなたを身請けするつもりもない!僧侶の身辺で芸妓がウロウロしておっては外聞にかかわるから、とっとと失せろ!」
「……そんな……」
腹を痛めて命がけで産んだ子を捨てる≒殺すにも忍びず、仕方なく『たか』は芸妓を辞め、我が子を抱いて故郷へ帰って来たのでした。
「私も似たような生い立ちですから、親の因果が子に巡ったのでしょうか……」
さめざめと泣く『たか』を慰めながら、養父は彦根藩士の多田源左衛門(ただ げんざゑもん)と話をつけて、常太郎をその養子とします。やがて元服して多田帯刀(たてわき)と改名するのでした。
息子の成長を頼もしく見守る一方、『たか』の方でも暮らしに変化がありました。当時、彦根城下で部屋住み暮らしをしていた井伊直弼との出逢いです。
【後編へ続く】
※参考文献:
安岡昭男 編『幕末維新大人名事典』新人物往来社、2010年5月
日本歴史学会 編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年1月
松岡英夫『安政の大獄 井伊直弼と長野主膳』中公新書、2001年3月
今回は幕末の女スパイ・村山たかのエピソードを紹介したいと思います。
■20歳で故郷を飛び出し……
多賀大社。Wikipedia(撮影:Saigen Jiro氏)より。
村山たかは江戸時代後期の文化6年(1809年)、近江国は多賀大社(たがたいしゃ。現:滋賀県多賀町)にあった尊勝院(そんしょういん)の娘として誕生しました。
尊勝院とは神宮寺(神社境内の寺院)の一つで、そこに在籍していた僧侶の誰かが父親ということなのでしょう(母親は不明、近郷あるいは檀家の女性かも知れません)。
しかし僧侶が子をなしては外聞が悪いからか、生後間もなく彦根(現:滋賀県彦根市)に住む寺侍(寺社に奉公する武士)の村山家へ養女として預けられました。
「お多賀さん(多賀大社の愛称)にあやかって、この子は『たか』と名づけよう(※諸説あり)」
養親たちの躾が良かったようで、文政9年(1826年)、18歳となった『たか』は彦根藩主・井伊直亮(いい なおあき)の侍女として奉公に出ました。

彦根藩第14代藩主・井伊直亮。Wikipediaより。
「お城で真面目に勤めれば、きっといいお相手が見つかるぞ。良かった良かった……」
養親たちは『たか』を見送りながら、その幸せを願ったことでしょうが、奉公に出てから2年後の文政11年(1828年)、どういうわけか『たか』はお城勤めを辞めてしまい、故郷を飛び出してしまいます。
「あの子にいったい何があって、どこへ行ってしまったのでしょう……」
「とにかく今は、無事でさえいてくれればいいが……」
行方をくらました『たか』が再び故郷へ戻って来たのは、それから3年の歳月を経た天保2年(1831年)のことでした。
■我が子を抱えて出戻って……
「……名前は、常太郎(じょうたろう)です」
『たか』が抱いていたのは、生まれて間もない彼女の息子。聞けば故郷を飛び出してから京都の祇園で芸妓をしており、贔屓にしてくれた住職との間に子を授かったものの、私生児として認知されませんでした。

『たか』の芸妓時代(イメージ)。
「そんな子は知らん!また、そなたを身請けするつもりもない!僧侶の身辺で芸妓がウロウロしておっては外聞にかかわるから、とっとと失せろ!」
「……そんな……」
腹を痛めて命がけで産んだ子を捨てる≒殺すにも忍びず、仕方なく『たか』は芸妓を辞め、我が子を抱いて故郷へ帰って来たのでした。
「私も似たような生い立ちですから、親の因果が子に巡ったのでしょうか……」
さめざめと泣く『たか』を慰めながら、養父は彦根藩士の多田源左衛門(ただ げんざゑもん)と話をつけて、常太郎をその養子とします。やがて元服して多田帯刀(たてわき)と改名するのでした。
息子の成長を頼もしく見守る一方、『たか』の方でも暮らしに変化がありました。当時、彦根城下で部屋住み暮らしをしていた井伊直弼との出逢いです。
【後編へ続く】
※参考文献:
安岡昭男 編『幕末維新大人名事典』新人物往来社、2010年5月
日本歴史学会 編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年1月
松岡英夫『安政の大獄 井伊直弼と長野主膳』中公新書、2001年3月
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