1868年1月3日から6日までの4日間、京都洛南の鳥羽・伏見において、徳川慶喜を擁する旧幕府軍と薩摩を中心に長州などを主力とする維新政府軍の間で、激戦が繰り広げられた。

戦闘は、維新政府軍の連戦連勝により、旧幕府軍はじりじりと大坂に追い詰められていく。
旧幕府軍の失地回復は、大要塞・大坂城での徹底抗戦しか残されていなかった。

そんな中、1月6日の夜、慶喜は股肱の臣を伴って、突然大坂城を脱出した。

結果的に、この敵前逃亡が徳川家復権の望みを断ち切る決定打となった。なぜ、慶喜は大坂城から逃げたのか、その真相を探っていく。

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前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その1】

■慶喜、突然に大坂城を脱出する

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復元された開陽丸。オランダで建造された幕末当時アジア最強の軍艦だった。(写真:T.TAKANO)

大坂城中をことごとく感動の渦に巻き込んだ大演説の翌日、徳川慶喜は密かに大坂城を脱出した。

そして、1月7日の夜明け前、その姿は、大阪湾上で睨みを効かす旧幕府艦隊旗艦「開陽丸」の艦長室にあった。

慶喜とともに大坂城を脱出したのは、

●筆頭老中板倉伊賀守勝静(かつきよ)[備中松山藩主]

●老中酒井雅樂頭忠惇(ただとう)[播磨姫路藩主]

●若年寄永井主水正尚志(なおゆき)[旗本]等の幕閣たち

さらに、未だに前線で踏みとどまって必死に戦いを続けている会津・桑名の藩主松平容保・定敬兄弟もいた。

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陸奥国会津藩9代藩主「松平 容保」(写真:wikipedia)

二人は、ぎりぎりまで慶喜から大坂城退去を打ち明けられていなかった。

脱出直前に供を命じられ、固辞するもかえって逆鱗に触れ、泣く泣く家臣たちを見捨てて同行してきたのだ。

板倉伊賀守は、開陽丸副長の沢太郎左衛門に早急に江戸に向け出帆するよう迫った。
これに対し、沢は、艦長榎本武揚の不在を理由に、大坂湾出帆を引き延ばした。

だが、翌8日夜、しびれを切らした慶喜の厳命でついに大坂湾を出帆、10日夕方に江戸湾浦賀港に投錨した。ここに徳川慶喜の大坂城脱出・江戸帰還はなったのである。

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江戸城を脱出、大阪湾沖に停泊する開陽丸を目指す徳川慶喜一行。(写真:Wikipedia)

■東帰のきっかけになった神保修理の進言

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ナポレオン3世から贈られたフランス軍服姿の慶喜。(写真:Wikipedia)

徳川慶喜はいつ江戸へ逃げる決意を固めたのか。そして、そのきっかけは何だったのか。それは、1月5日、あの大坂城大広間での大演説の後であったと推測される。

同日深夜、慶喜は松平容保の信任篤い神保修理長輝(ながてる)[会津藩軍事奉行添役]を呼び寄せて謁見した。善後策を問われた修理は、きっぱりと言い切る。

このような事態に至っては、もはやなすべき方法はございません。

内府様におかれましては、速やかに江戸にお帰りになり、落ち着いて善後の策をめぐらされるのがよろしいかと思われます。
(『昔夢会筆記』)

修理の「速やかに江戸に戻り、善後策をめぐらされるのがよろしい」という言葉の意味は、様々に解釈されている。

その多くは、修理は恭順派であり、善後策というのは慶喜の恭順謹慎であるとされる。

事実、修理は会津藩内で裏切者との槍玉にあげられ、慶喜東帰から2ヶ月もしないうちに、江戸で自尽に追い込まれた。将来を嘱望されながらの僅か35年の人生だった。

しかし、修理の名誉のためにも明確に述べておかなければならないことがある。それは、1911年に『慶喜自身が語っている』ことだ。

神保の建言を聞いたのち、むしろその説を利用して江戸に帰り、

固く恭順謹慎しようと決心したが、それは心の中にしまい、

だれにも打ち明けなかった。(『昔夢会筆記』)

慶喜は、真摯に進言した修理の真意を理解していながら、「その説を利用」したのだ。

もちろん、「落ち着いて善後の策を」という修理の言葉には、「時勢の推移を見て」という意味が含まれていたのだろう。

しかし、その真意とは、恭順ではなく、あくまで江戸に帰り、戦線を立て直すことであったことに間違いないだろう。

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白金の興禅寺に立つ神保修理の墓。修理没後の約半年後、父内蔵助・妻雪子も会津戦争で自尽した。
(写真:T.TAKANO)

■慶喜が開陽丸で側近に語ったこと

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開陽丸(写真:wikipedia)

慶喜が開陽丸乗船中に、松平容保と交わした会話がある。主命とはいえ、藩士たちを見捨てて江戸に戻る容保には、忸怩たる思いが纏わりついていたのだろう。やや責めるような口調で、

去る5日、内府様は勇ましい演説を行い、我が軍の士気は大いに盛り上がりました。

お言葉の通り、内府様が出陣されれば、数日の敗戦を覆すことができたはずです。

それなのに、何故、こうも急に東帰することを決心されたのか。(『会津戊辰戦史』)

この問いに対し、慶喜は平然と言ってのけた。

あのような調子でやらなければ、皆が奮い立たないからだ。あれは一種の方便だよ。(『会津戊辰戦史』)

慶喜は、はっきりと「皆が奮い立たないから」と述べている。

では、あの大演説を行った、まさにその時、慶喜は本気で戦うつもりだったのか。

そして、開陽丸が無事に大坂湾を抜け、紀州沖に出た時、板倉伊賀守を艦長室に呼び寄せ、こう命令した。

江戸に戻ったら、自分は恭順謹慎して、朝廷の仰せの通りに従う決心をした。
決して抗戦はしない。皆そのように心得て欲しい。(『昔夢会筆記』)

これには、温厚な板倉もさすがに顔色を変えて抗議した。

それはそうだろう。鳥羽・伏見で慶喜のために戦い、死んでいった将兵はもちろん、江戸で待っている幕臣たちに何も言い訳ができない。それほど、慶喜の無責任さは際立っていたのだ。

しかし、慶喜は一切の聞く耳を持たなかったという。1月5日から数日間の慶喜の言動は、全く一貫性を欠いている。いや、不安定といった方がよいだろう。

腹心である板倉伊賀守にも、そして、ここまで労苦をともにしてきた松平容保にすら本心を打ち明けない。そんな慶喜の姿は、もうこの時点で、徳川崩壊を象徴していたのかもしれない。

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板倉伊賀守勝静。
慶喜股肱の臣だが、江戸開城の後、旧幕府軍参謀として五稜郭まで戦い抜いた。(写真:Wikipedia)

【その3】に続く……

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