江戸にあった道場「玄武館(げんぶかん)」の門下生は3000人を超え、江戸随一の剣術道場となった。
■創始者・千葉周作(ちばしゅうさく)
千葉周作(Wikipediaより)
北辰一刀流の創始者であり、玄武館を創設した人物である。1794年奥州生まれ。幼少期は宮城で暮らし、北辰夢想流と呼ばれる流派を学ぶ。
少年期に父と共に移り住んだ下総国(現在の千葉県)松戸にて、剣客・浅利義信に入門。中西派一刀流を会得した。
周作は義信の姪である「かつ」と結婚し中西道場を継ぐも、方針の違いより対立したとされる。義信の元を独立した周作は、全国を武者修行しながら他流試合で腕を磨いた。その後、自身の流派である「北辰一刀流」を創始。
1822年。28歳にして日本橋に北辰一刀流道場「玄武館」を建立。後に神田に移転する。
1856年。永眠。享年61。
■周作亡き後の玄武館

現在の玄武館跡地(Wikipediaより)
周作には4人の息子があった。二代目は3男の道三郎が継いだ。道三郎に師事した小林誠次郎は北辰一刀流の相伝を受けた後、弟子の勝浦四郎を養子とする。四郎は北辰一刀流の免許を得た後に小樽へ渡り、玄武館小樽道場を建立。
小樽玄武館に入門した三浦義勝と小西重治郎成之は兄弟弟子の関係にあり、1944年に四郎が亡くなると、4代目と5代目を継承した。
5代目の重治郎は実に半世紀にわたり玄武館の館長を努め、出稽古や警察学校での剣道指導など、勢力的に活動し現在の玄武館の礎を築いた。
6代目は重治郎の実子でありる小西真円一之が継承し、現在に至る。
【後編】では、幕末期の北辰一刀流についてご紹介する。
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