時は江戸幕末、日本全国どの藩よりも朝廷をたっとび、その意思である外国勢力を打ち払わんとする尊皇攘夷の志に篤かったにもかかわらず、その過激さゆえ政争に敗れて排斥され、図らずも「朝敵」となってしまった長州藩(毛利家)。

ひとたび朝敵となった以上、日本中が敵に回る……というわけで元治2年(1865年)6月、徳川幕府の指令により討伐軍が四方から長州へ攻め込んで来ました。


これが後世に言う「第二次長州征伐(第一次は外交努力によって戦闘を回避)」、長州では「四境戦争」と呼ぶそうですが、完全包囲されてしまった緊迫感が伝わって来ますね。

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立ち上がった奇兵隊士ら。Wikipediaより。

もはやどこにも逃げられない……絶望のどん底に沈む毛利家だけに長州の未来を任せておけない、と立ち上がったのが幕末の梟雄・高杉晋作(たかすぎ しんさく)ら率いる奇兵隊(きへいたい)など諸隊。要するに義勇軍です。

どうせ死ぬなら恥も外聞もなくやっちまえ!むしろ守るものがないって気楽でいいなぁ!……などと思ったかはさておき、大いに暴れ回って四方から攻め寄せた討伐軍を奇跡的に撃退。

「よっしゃあ!何だ、幕府なんて張り子の虎じゃないか。このまま反撃に転じようぜ!」

……やがて長州は朝敵の汚名を返上し、薩摩藩・土佐藩などと並ぶ新政府軍の主力として戊辰戦争(慶応4・1868年1月~明治2・1869年5月)で旧幕府軍を撃破。明治維新を成し遂げたのでした。

「やった!ついに幕府を倒したぞ!」

御一新(ごいっしん。世の中を一新すること。世直し)にあれだけの武勲を立てたのだから、さぞや報いてもらえるに違いない……元は農民や無宿者、郷士といった下層階級出身の志士たちは、新たな世に希望を抱いていたのですが……。


■俺たちは用済みか!怒れる志士たちの叛乱

「おい、一体どういうことだよ!」

明治2年(1869年)11月25日、長州藩主から山口藩知事となった毛利元徳(もとのり)から出された布告に、奇兵隊士らは騒然としました。

俺たちは用済みか!明治維新後、リストラされた奇兵隊や長州志士たちの叛乱「脱隊騒動」


「そなたらの功労も解らぬではないが、我らもまた苦しいのだ」志士たちを慰撫・説得する毛利元徳(イメージ)。

布告は「現在、財政難であるから、臨時に雇っていた奇兵隊ら義勇軍約5,000名のうち、約2,000名を除き全員リストラする」というものです。

約2,000名については御親兵(ごしんぺい。藩主の親衛隊)として改めて召し抱えるということですが、その選抜基準も武功ではなく身分や家柄が重視され、もともと武士だったものに限られました。

「ふざけるな!困った時は『身分も家柄も問わぬ』など共に戦わせておきながら、いざ幕府を倒して御一新なれば、もはや用済みとばかり、血を流した同志を切り捨てるのか!」

11月30日、この処置に納得できない長島義輔(ながしま ぎすけ。旧奇兵隊)や藤山佐熊(ふじやま すけくま。旧振武隊)、富永有隣(とみなが ゆうりん。旧鋭武隊)ら約1,200名は各隊を離脱。

俺たちは用済みか!明治維新後、リストラされた奇兵隊や長州志士たちの叛乱「脱隊騒動」


挙兵した志士たち(イメージ)。

これが後世に伝わる「脱隊騒動(だったいそうどう)」の幕開けで、明治3年(1870年)1月13日に浜田裁判所(現:島根県大田市)を襲撃。1月24日には彼らをなだめるためにやってきた知事を、山口藩議事館(現:山口県庁舎)に包囲してしまいます。


「御恩なき主君に奉公など要らぬ……野郎ども、これから第二の世直しじゃ!」

討伐にやって来た藩知事の軍勢も撃退し、混乱に乗じて決起した農民一揆なども吸収して約1,800名に膨れ上がった脱隊軍はますます士気旺盛、このままでは知事の命さえ危ない状況です。

■激戦の末に敗北

事態の解決を図るため、明治政府は東京に来ていた木戸孝允(きど たかよし。桂小五郎)を山口へ帰郷させ、改めて討伐軍約800名を再編させました。

俺たちは用済みか!明治維新後、リストラされた奇兵隊や長州志士たちの叛乱「脱隊騒動」


明治維新の元勲・木戸孝允。この叛乱を抑えられるのは彼しかいなかった。

「数でこそ劣るがこちらは少数精鋭、むしろ農民どもを掻き集めた脱隊軍は統制がとれず、たやすく翻弄できるだろう」

明治3年(1870年)2月9日から11日にかけて山口藩軍と脱隊軍が激突、小郡(おごおり。現:山口県山口市)や三田尻(みたじり。現:山口県防府市)など各地で一進一退の攻防戦を繰り広げた結果、山口藩軍が勝利を収めます。

「もはやこれまでか……!」

敗戦の中で藤山佐熊は討死、富永有隣は再起を期して逃亡し、長島義輔は残党をとりまとめて降伏。3月18日に斬首され、5月6日までに首謀者35名が処刑されました。

この脱隊騒動における一連の死傷者は脱隊軍が133名(死者60、負傷73)、討伐軍84名(死者20、負傷64)、脱隊軍のうち平民出身者約1,300名については帰郷が許されたと言います。

俺たちは用済みか!明治維新後、リストラされた奇兵隊や長州志士たちの叛乱「脱隊騒動」


一将功成りて、万骨枯る(イメージ)。


また、訴えにより四境戦争から明治維新における功労が認められた600名(※叛乱に加担していない者も含む)については、ようやく一人半扶持(米で2石7斗/年相当)が与えられたのでした。

せめてもの報いと言えなくもありませんが、誰もが命がけで戦ったのに、いい思いができるのはほんの一握り……今も昔も変わらない構図を変える「大義」を前に、また多くの者たちが血と汗と涙を流すのでしょうか。

※参考文献:
一坂太郎『長州奇兵隊 勝者のなかの敗者たち』中公新書、2002年10月

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